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( ^ν^)ショソン・オ・ポムにアンコールを、のようです

1:名無しさん:2023/10/04(水) 20:12:13 ID:t/sLrqC20

昔、“I love you”を“月が綺麗ですね”と訳した文豪がいたらしい。

 

今となっては典拠不明の、一種の都市伝説であるという話だ。

情報飽和社会と揶揄されるこの現代。その程度のこと、今ではそこらの高校生ですら知っている雑学の類。

それなのに、この無駄に気取った言い回しを好んで使いたがる輩が、科学が発達しきった今の世でも未だにわんさかといる。

 

文通だのなんだのと不便だった明治・大正とは違い、今では隣人どころか地球の裏側にいる人間にだって、指先一つで愛を囁ける時代だ。

告白というものがそんな気軽で簡易なものになり下がった今でも、“そんなこと”すら出来ない人間でこの国や世界は満ちている。なんとも嘆かわしいことだと思う。

 

 

2:名無しさん:2023/10/04(水) 20:14:57 ID:t/sLrqC20

 

お猪口を置き、空を見上げる。

宝石箱をひっくり返した海の中を思わせる夜の中心に、丸々と、それでいて煌々と輝いている月が見える。

 

よく見れば、それは満月ではなかった。人々が望むような、創作の中でむやみやたらに持て囃されがちな満月は昨日で終わっている。

それでも少し欠けたその十六夜は、芸術の類に疎い自分でも、目が離せなくなる不思議な魅力を湛えて夜の街を照らしていた。

 

視線をちらりと横に移す。

そこには淡い月光も文豪の形容も笑い飛ばすかのように、すやすやと眠る幼馴染の横顔があった。

 

彼女を見ながら、ふと、とあることに気が付いた。

 

そうか。きっと、“月が綺麗”なんて、気障な言い回しを考えた者は。

きっとそいつは、博識な文豪でも、瀟洒を気取った訳でも、はたまた日本人に古来から伝わる奥ゆかしさなんてものを重視した訳でもなく。

 

今の自分と同じように。

 

そいつは、単純に、ただ、きっと――。

3:名無しさん:2023/10/04(水) 20:16:34 ID:t/sLrqC20

 

 

 

 

ζ(゚、゚;ζ「ふぐぐっ……お、重い~~!!!」

 

パンパンになった袋を気合で運びながら家へと急ぐ。

さっきスーパーで見た時計は午後5時頃を指していた筈なのに、既に外は日が落ちきり、完全な夜になっていた。

 

ζ(゚―゚;ζ「ちくしょう…やっぱり車買っとくんだったっ…!」

 

車さえあれば、こんなに疲れる思いをすることもなかったのに。

都合の良い妄想が脳内に浮かんだものの、“いや、私そもそも免許なかったわ”という冷静なセルフツッコミがかき消していった。

 

 

4:名無しさん:2023/10/04(水) 20:17:59 ID:t/sLrqC20

ぜぇぜぇと肩で息をしながら、必死に歩くこと数十分、

ふと、鼻腔を擽る甘い香りが漂ってきて、私はパッと顔を上げる。

視線の先には、365日いつも見ている、網膜に焼き付いた赤い屋根と文字が見えた。

 

お洒落なフランス語とフォントで書かれたそれを見て、やっと着いたと胸を撫でおろす。

『パティスリー・アンコール』。それが今の私の職場であり、兼、家だ。

 

屋根を見上げたまま、少し視線を更に上へあげる。

いつの間にか黒にそまっていた夜の空、その中に期待した光はどこにも見当たらない。

“そうか、今日は新月か”と納得すると同時に、ほんの少しのがっかり感が胸の片隅で燻った。

 

ζ(゚、゚*ζ(月見酒を楽しもうと思ってたんだけどな…)

 

ほぼ毎日惰性で確認している某SNSアプリで流れてきた旧友の近況。

先日見たその中に、月見をしながらお酒を飲んでいる様子があった。

これはいい、私も次の満月の夜にやろうと意気込んだはいいものの、仕事の疲れや準備などに追われ続けてこのざまである。

 

 

5:名無しさん:2023/10/04(水) 20:19:10 ID:t/sLrqC20

気合を入れ直し、裏口へとぐるっと回る。

そこにある、階段を上がった二階。上がり切ってすぐに見える玄関の横には、『津島』と書かれた表札とポストが設置されている。ここが私の現在の住まいだ。

 

ようやく一息つける。少しの解放感と大きな安堵に包まれながら、慣れた手付きで鍵を回す。

すると、とある違和感を覚えた。回そうと思った方向に鍵が回らない。

瞬間的に私は気付く。私が鍵を挿すまでもなく、元々、鍵は開いていたのだ。

 

ζ( ― #ζ「………あんにゃろ…」

 

勢いよく玄関のドアを開け、中に入る。

足元には、嫌味なくらい綺麗に磨かれた黒の革靴が二足。

もちろん私のものではない。私が履くにはサイズがあまりに合わなさすぎる。

 

荷物を両手に持った状態で、あえて足音をドタドタとたてながら廊下を進む。

怒りと不機嫌を隠そうともしないまま、私は脚で思いっきりリビングのドアをバンと開けた。

 

 

6:名無しさん:2023/10/04(水) 20:20:18 ID:t/sLrqC20

 

ζ(゚ー゚#ζ「ちょっとニュッ!!来るときは一言連絡入れろって言ってるでしょ!?」

 

リビングに入るなやいなや、怒鳴り声を叩き込む。

案の定、部屋の中心には炬燵に身を委ねている一人の青年の姿があった。

 

( -ν^)「…んあ、ああ……おかえりデレ。今日の晩飯なに?」

 

ζ(゚皿゚#ζ「ぶち殺すぞ!!」

 

ボサボサになった髪を搔きながら、面倒そうにゆったりと起き上がる。

『新塚ニュッ』、定期的に私の家に食事をたかりに来る甲斐性なしだ。

 

炬燵から少し離れた所に置かれているソファーをちらりと見る。

そこには、乱暴に脱ぎ散らかされたスーツのジャケットとネクタイが放置されているのが伺えた。

 

 

7:名無しさん:2023/10/04(水) 20:24:35 ID:t/sLrqC20

 

ζ(- -#ζ「全く…ほら、いるなら野菜とか冷蔵庫にいれるの手伝って!!」

 

( ^ν^)「客人に手伝わせんのかよ」

 

ζ(゚Д゚#ζ「誰が客人じゃボケェ!!不法侵入で訴えんぞ!!」

 

( ^ν^)「素人に俺が負ける訳ねぇだろ」

 

ニュッはそう言いながら、立ち上がろうともせずケラケラと笑う。

彼の後ろに置きっぱなしのジャケットの襟元には、秤の意匠が彫られたバッジがキラリと輝いていた。

 

ζ(゚―゚#ζ「…あーそうですか、じゃあそこでダラダラしといてくださーい。私は鍋作って一人で食べまーす」

 

( ^ν^)「…は?おい、俺の分は?」

 

ζ(゚皿゚#ζ「働かざる者食うべからずじゃカス!!」

 

いつの間にか無駄に成長していた上背を思いっきり蹴り飛ばす。

「ぐほっ」という情けない声に溜飲を少し下げた私は、いそいそと袋の中身を整理し始めた。

 

 

9:名無しさん:2023/10/04(水) 22:49:09 ID:tie1mNy60

 

( ^ν^)「…あーもう、分かったよ……」

 

ζ(゚、゚#ζ「最初からそうしろっ!」

 

ようやく重い腰を上げたニュッに、あれこれと指示を出しながら共同で物を片付けていく。

 

必要最低限の指示だけ口頭で済ませると、さっきまでの気だるさが嘘のようにニュッはテキパキと動き始めた。

何度も何度もうちに食事をたかりに来るうちに、私なりのやり方やルールといったものが染みついたのだろう。

途中からは私が特に指示を出すこともなく、袋の中身は片付いていた。

 

その上、いつの間にやら使う予定だった鍋まで出されている。

鍋を普段置いている戸棚の上を見ていると、「こいつの身長を何とか物理的に奪う方法はないものか」と物騒な考えが頭を過った。

 

 

10:名無しさん:2023/10/04(水) 22:51:01 ID:tie1mNy60

ここまでやれば、後は私の出番である。

愛用しているまな板と包丁を取り出し、必要な具材を並べていく。

 

本職こそ洋菓子職人、パティシエールではあるが、菓子以外の料理にも手を抜くことは私の矜持が許さない。

料理のジャンルにかかわらず、食べる人の詳細にかかわらず、おざなりにするのは嫌なのである。

 

今日の夕飯は、数日前から決めていた。

街に咲く草木は鮮やかな紅色に染まり、午後5時には日は暮れ、朝は白い吐息が出る今日この頃。

ギリギリ秋と呼べるかどうかといったこんな寒い時期に、最も食べるべきものは何か。

 

果物ならば林檎やマスカットなどが思い浮かぶだろう。

普通の料理ならば、栗やかぼちゃ、魚などがメインに並ぶ。

 

しかし、私が今求めているのはそれではない。

この寒さを吹き飛ばし、なおかつ、今が旬の食べ物を効率よく、美味しく一気に食べられる料理。

 

そう、それこそが今日の夕食、“鍋”である。

 

 

11:名無しさん:2023/10/04(水) 22:51:59 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚、゚*ζ「あ、ちょうどいいや。はいコレ」

 

( ^ν^)「は?何だよ」

 

ζ(>、<*ζ「大根おろし、よろしくね☆」

 

おろし器と大根を押し付け、嫌そうな顔をするニュッから顔をそらす。

大根おろしは市販のモノを買うよりもやはり自分で擦りたい。

とはいっても面倒なことに変わりはない。使える男手がそこにあるのに使わない女子がいるものか。

 

不機嫌さを隠そうともしないニュッの隣で、私は私で作業をする。

今日の鍋は「つみれ鍋」。大根おろしをたっぷり使った、さっぱりヘルシー。なおかつ身体が芯まで温まるこの季節にピッタリの料理だ。

 

 

12:名無しさん:2023/10/04(水) 22:53:39 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚ー゚*ζ(さーて、まずはタネから!)

 

腕まくりをし、気合を入れてエプロンを締めた。

 

最初は今回の主役の鶏つむれから。

これも買ってきた方が楽なのは分かっているのだが、今日は比較的時間があったから自分で仕込んでみることにした。そっちの方が美味しい気もするし。

 

ボウルに鶏ひき肉と塩を入れよく混ぜる。

粘り気が出てきたら卵、みじん切りしたネギ、すりおろしした生姜、酒、片栗粉を加えて再びまぜまぜ。

一口大に丸めれば、鶏つみれの完成だ。

 

ζ(゚、゚*ζ「あっ!ちょっと、おろしの汁捨てないでね!」

 

( ^ν^)「は?何に使うんだよこんなの」

 

ζ(゚ー゚*ζ「鍋に入れるのよ。その方がさっぱりするし、栄養もたっぷりなんだから!」

 

( ^ν^)「…へいへい」

 

鍋に少しだけ大根の汁を入れさせている間、戸棚から調味料を取り出した。

塩は小さじ1で、便利な鶏がらスープの素、酒とみりんは大さじ2ずつ。

そこに水を加えて鍋に入れ、ひと煮立ちさせれば下準備は完了だ。

 

 

13:名無しさん:2023/10/04(水) 22:57:18 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚ワ゚*ζ「よし!じゃ、鶏入れてー!」

 

( ^ν^)「よっしゃ」ザバー

 

ζ(゚Д゚#ζ「おおいそんな勢いよく入れるな!!」

 

鍋に鶏つみれを落とし入れ、火が通ったら皿に取り出し、灰汁は取り除く。

こうすることで鶏の肉の旨味が鍋全体に染み出し、後に入れる野菜にも染み渡るという寸法だ。

 

次に入れていく具材も特に変わったものはない。

白菜に長ネギ、椎茸や豆腐、豚バラ肉などの火が通りにくいものや出汁が出やすい具材を先に入れていく。

プラスとしてウインナーも。個人的な話だが、私はアル〇バイエルンが好きだ。

 

次に入れるのは春菊とえのきと鶏つみれ、そして最も大事な大根おろし。

しばらく放置し、ひと煮立ちさせた後にささっとポン酢をかければ「みぞれ鍋」の完成である。

 

 

14:名無しさん:2023/10/04(水) 22:59:08 ID:tie1mNy60

鍋をリビングに持っていき、いそいそと飲み物や箸を準備していく。

いつの間にか増えていた不法侵入野郎の私物に少しイラっとしながらも、私は既に思慮分別ある成人女性だ。

口にはしないまま「チッ」という軽い舌打ちにとどめ、こたつの中に足を埋めた。

 

人ζ(- -*ζ

      「いただきます」

( -ν-)人

 

律儀に手を合わせ、しっかりと火が通った具材を器によそっていく。

お店なら専用の菜箸などを使うのだろうが、お互い幼稚園の頃から勝手知ったる間柄。そんなことは一々気にせず、好きなように食材をつまむ。

 

器の横にはもちろん、炊き立てホカホカの白ご飯。

すき焼きだろうが水炊きだろうが、鍋には白ご飯を欠かさないというのが私のルールだ。

 

 

15:名無しさん:2023/10/04(水) 23:01:00 ID:tie1mNy60

色とりどりの具材と鍋の良い匂いに箸が迷うが、やはり最初はメインである鶏つみれから。

可愛らしい一口サイズに丸まったそれに、ふーふーと息を吹きかけること数回。

火傷しないよう配慮しながら、ゆっくりと口に放り込んだ。

 

ζ(´、`*ζ(あつ…!でも、おいし~!)

 

咀嚼する度に、中に入っている刻みネギがシャキシャキと子気味よい音をたてる。

その音と共に洪水みたいに流れてくるのは、ぎゅっと凝縮された旨味たっぷりの肉汁だ。

 

ふんわり香る生姜とポン酢の風味、そしてたっぷり入れられた大根おろしたちが肉汁のしつこさを打ち消し、口の中にはさっぱりとした美味しさだけが残る。

まさに極上の一品。完璧で究極の出来栄えだ。

 

もう一つ。今度は白ご飯の上に着地させ、米と共にいただいてみる。

これがまた憎らしいほどによく合う。噛めば噛むほど溢れる肉の旨味が、米の甘味とマリアージュして食べれば食べるほど食欲が湧いていくという不思議な一品に早変わり。

 

 

16:名無しさん:2023/10/04(水) 23:03:02 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚、゚*ζ「……お酒、欲しくなるなぁ」

 

ごくりと飲み込むや否や、対面に座っている青年の方にわざとらしい視線を送る。

私の声と仕草に気が付いた彼は一瞬だけこっちを見た後、興味を失ったように鍋からウインナーをかっさらっていった。

私が食べたくて入れたやつなのに。ちくしょう。あんまり入ってねーんだぞ。

 

( ^ν^)「いや、今日なんも持ってきてねーけど」

 

ζ(゚―゚;ζ「はぁっ!?なんで!?なんだかんだ、いつも何かしらくれるじゃん!」

 

想定外の一言に思わず箸を落としかける。

 

合鍵を使って勝手に入り込むのは今に始まったことではないが、普段ならその度に何かしらの土産を持ってきていた。

“最低限の礼儀はあるのだな”と感心すると共に、彼が持ってくる珍しい酒やお菓子などに舌鼓を打てるから、こんな無愛想な男でもいきなりの訪問を許しているというのに。

 

 

17:名無しさん:2023/10/04(水) 23:03:40 ID:tie1mNy60

 

( ^ν^)「いや…今日は仕事終わってそのまま来たから」

 

ζ(゚、゚#ζ「知らないわよそんなの!これじゃあ本当にタダ飯食らいじゃない…腹立つ~!!」

 

( ^ν^)「センキューお母さん」

 

ζ(゚皿゚#ζ「あんたみたいなの育てた覚えはないわっ!!」

 

苛々しながらガブリと白菜にかぶりつく。

途端、白菜の芯まで沁みた出汁の深みが圧倒的な分厚さと共に口内に押し寄せる。

野菜を食べている筈なのに、肉の塊を食べているのかと錯覚してしまうほどの満足感だ。

 

というか、ちゃんと肉も入れてあるのだったと思いなおして豚バラ肉をいただく。

大根おろしによって余分な脂がおちたそれは、いくらでも食べられるのではないかと思うくらいにさっぱりとしていて、肉が元来持つ食べ応えと濃厚な味を両立させていた。

 

 

18:名無しさん:2023/10/04(水) 23:05:24 ID:tie1mNy60

もぐもぐと、時には口論まがいのようなことを話しながら鍋をつついていく。

次は豆腐にしよう。そう決めて鍋に箸を向け、標的を定めて手を伸ばす。

その最中、視界の隅にニュッの茶碗がこちら側に差し出されているのが見えた。

 

鍋を始めた時にはツヤツヤの光沢を放っていた米が山のように積んであったはずなのだが、いつの間にやら米粒一つ残さず消え失せている。

それを食した張本人は、特に言及することなく鍋をつついている最中だ。

 

ζ(゚、゚#ζ「だーかーらー…“おかわり”ぐらいちゃんと言いなさいよ!てか自分で行け!」

 

( ^ν^)「ありがとございまふ」モグモグ

 

ζ(゚ー゚#ζ「食べながら喋るな!」

 

テコでも動こうとしない彼にしびれを切らし、結局いつもと同じように私が根負けして炬燵から出る。

「これくらいは食べるだろう」という量をよそい、「はい」と手渡す。

今度は「ありがとう」とちゃんとはっきり言われたから、殴るのは勘弁しておいた。

 

 

19:名無しさん:2023/10/04(水) 23:07:27 ID:tie1mNy60

 

( -ν-)「はー…美味い。やっぱその辺の店より、お前の飯の方がずっと美味いわ」

 

ζ(゚、゚*ζ

 

唐突な、本人にとっては何気ない言葉だったのだろう。

それでも不意打ちの賛辞は、私に豆腐を取り損ねさせるほどにはインパクトのあるものだった。

 

なんと返していいかわからず、「…そう」と端的に返答して落とした豆腐を再び掬う。

自分で自分に「気にするな」と言い聞かせながら、出汁が沁みた豆腐を一口で頬張った。

 

ζ(-、-*ζ「………それで?」

 

( ^ν^)「あん?」

 

ζ(゚、゚*ζ「君、本当は何しにきたのよ」

 

私以上にモリモリと食べていた不躾者の箸が、鍋の手前でピタリと静止した。

 

20:名無しさん:2023/10/04(水) 23:08:15 ID:tie1mNy60

 

( ^ν^)「……別に?腹減ったから来ただけ」

 

気だるそうな無表情を変えることなく、彼は再び箸を動かして椎茸をひょいとつまみ、ガブリと食らいつく。

十数年以上の付き合いだから分かる。

この後、私がどんな言葉を用いようが彼は何も話そうとしないだろう。

 

ζ(゚、゚*ζ(……疲れてるように、見えたんだけどな)

 

「そっか」とだけ言い、私も再び鍋に箸を伸ばした。

 

特に確たる論拠はない。

切れ長の細い瞳が、いつもよりもっと細く見えたこととか。

いつもはまっすぐな背筋が、少し曲がって見えた気がするとか、その程度のもの。

 

私だってとっくに成人済みの大人だ。

気にしてほしくないことにわざわざ深く突っ込む必要はないと、これまでの人生で学んでいる。

 

 

21:名無しさん:2023/10/04(水) 23:09:13 ID:tie1mNy60

 

( ^ν^)「お前こそ。最近、店は上手くいってんの?」

 

ζ(゚、゚*ζ「ちょっと、お父さんみたいなこと言わないでよ」

 

( ^ν^)「おじさんなら俺にこの前電話かけてきたぞ」

 

ζ(゚Д゚#ζ「えっ!?うっそ最悪!!あとで悪口言わなきゃ!!」

 

( ^ν^)「注意じゃないのかよ」

 

いつも通りの会話をしながら、ゆっくりと鍋の中身は減っていく。

そうして食事をすること約一時間半。

鍋の中身も炊飯器の中も、すっかり空になっていた。

 

 

22:名無しさん:2023/10/04(水) 23:10:57 ID:tie1mNy60

 

ζ(´ー`*ζ「はー美味しかった…毎日鍋でもいい。鍋最高」

 

( ^ν^)「えっ俺は嫌だ」

 

ζ(゚、゚#ζ「たからずに自分で用意しろ!!」

 

私の怒号もどこ吹く風。

鍋の3分の2以上を遠慮なく食べた彼は、満足そうにごろりと寝転がった。

 

それを尻目に鍋からコンセントを外し、キッチンへと持っていく。

これは料理をする人間なら絶対に分かってくれると思うのだが、後片付けという作業はどうしてこんなに面倒なのだろう。

食事はあんなに楽しい至福の時間であるというのに。昔から不思議に思っていたが、大人になった今でも答えは出ていない。

 

 

23:名無しさん:2023/10/04(水) 23:11:47 ID:tie1mNy60

 

( ^ν^)「なぁ」

 

ζ(゚、゚;ζ「うおっ!?」

 

鍋を洗おうとした矢先、いつの間にかすぐ近くにいたニュッに驚く。

耳元で低い声で囁くな。心臓に悪い。

 

ζ(゚、゚;*ζ「な、なに…?ていうか、どうせなら自分の食器とかも持ってきなさいよ…」

 

囁かれた方の耳を手でさっと隠す。

これは余談だが、ニュッの使っている食器は私が用意したものではない。

ここに引っ越してきてから数週間のうちに、いつの間にかヤツによって持ち込まれていたものだ。

 

( ^ν^)「……なんか甘いもん、ねぇの?」

 

少し言い辛そうに、私から巧みに目を逸らしながら言う。

まるでバレンタイン当日、意中の女子に自分の分のチョコレートがあるか否か尋ねる男子生徒のような面持ちだった。

 

 

24:名無しさん:2023/10/04(水) 23:13:57 ID:tie1mNy60

 

私の本業はパティシエだ。

祖父から受け継いだ店の上に、自分が住むための部屋を用意していつでも厨房に迎えるようにするくらいには、仕事大好き人間である。

 

定休日にしている金曜日や祝日も、基本的には菓子作りの研究や新レシピの開発などにあてている。

そんな私の冷蔵庫には、常日頃から余った店のケーキや新商品の試作品などがわんさかある。

 

ニュッは甘党だ。

幼い頃はそうでもなかった気がするが、中学生の時分くらいからよく甘いものを頬張っている姿を見かけるようになった。

彼が大学生だった頃、勉強中の差し入れに自作の菓子を差し入れしたことだって何度もある。

社会人になった今でもそれは続けている。

半分は率直な菓子の感想が聞きたいから。もう半分は幼馴染への餌付け。

だが生憎、今日に限っては――。

 

ζ(゚ー゚;ζ「あー…ごめん。今日はなんにもないんだよね~」

 

( ^”ν^)

 

ζ(゚、゚;ζ「そんな分かりやすく不機嫌にならないでよ…」

 

さっき踏み込んだことを聞きかけた時でも無表情を崩さなかったのに、甘いものがないと聞いた途端にこれだ。

分かりやすいのか分かりにくいのか。思わずニヤケそうな口角を抑える。

 

 

25:名無しさん:2023/10/04(水) 23:15:42 ID:tie1mNy60

 

ζ(-、-*ζ「…もう、はいはい。次はちゃんと何か作っておくから」

 

鍋を洗う手を止め、改めてニュッの方に向き直る。

「何が食べたいの?」と尋ねると、彼は少しだけ考える素振りを見せた後、ゆっくりと口を開いた。

 

( ^ν^)「…アレ食べたい、久々に。あの…リンゴのやつ」

 

ζ(゚ー゚*ζ「…あぁ!アレね」

 

ニュッが言おうとしている菓子の名に、私はすぐにピンときた。

 

昔から彼によく作っているものであり、うちの店の看板商品でもあるフランス菓子。

ニュッも名前を思い出したようで、少しすっきりした顔でこちらに再び視線を向ける。

そして、私たちは全く同時に、頭に思い描いた菓子の名前を口にした。

 

( ^ν^)

      「「ショソン・オ・ポム」」

ζ(゚ー゚*ζ

 

数瞬のズレもなく響いた言葉に、私たちの笑い声がキッチンに響いた。

 

 

26:名無しさん:2023/10/04(水) 23:18:03 ID:tie1mNy60

『ショソン・オ・ポム』。いわば、フランスのアップルパイだ。

日本で浸透しているアップルパイとさほど変わりないが、特徴的な差異としては見た目の違いが挙げられる。

日本の場合は円状のパイを切り分けて食べるというのが一般的だが、ショソン・オ・ポムはそうではない。こちらは、一つ一つが独立してパイ包みになっている。

 

そういえば確かに最近は秋限定のスイーツの試食ばかり頼んでいて、逆に定番メニューを食べさせていなかった。

良い機会だろう。それに何より断る格別の理由も無い。

 

ζ(^―^*ζ「オッケー!次はちゃんと用意しておくから!」

 

( ^ν^)「……頼んだ」

 

「俺も、次はなんか土産持ってくる」とだけ言い残し、彼はリビングの方へと消えていく。

いつの間にか無駄に大きくなっていた背中を見送った後、私は鼻歌交じりに鍋や食器の洗浄を再開した。

 

 

27:名無しさん:2023/10/04(水) 23:20:35 ID:tie1mNy60

 

ζ(´、`*ζ(………えへへ)

 

料理を生業としているものにとって、自分が作ったものが美味しいと言われる以上の喜びはない。

それも、わざわざ「また食べたい」とリクエストされるなんて猶更だ。

 

ζ(゚、゚*ζ(どうせなら、焼きたて食べて欲しいなぁ)

 

鍋を洗いながら、前に焼きたてを食べてもらったのはいつだっただろうかと振り返る。

今でこそ菓子作りを仕事にしているものの、別に最初からパティシエを目指していた訳ではない。

中学の頃、菓子職人だった祖父がこちらに店を構えて、お小遣い欲しさに手伝うようになって、それから真面目に菓子作りにのめり込んだ。

…当時、幼馴染のニュッを巻き込んだ気もする。もしかしたら、少なくとも成人してからは余ったものしか食べてもらっていないかもしれない。

 

ζ(゚、゚*ζ(ニュッの仕事が終わるのが遅いのよね)

 

彼の仕事は弁護士だ。

あまり詳しい仕事内容は知らないが、基本的にいつも何処かに出かけたり、事務仕事に追われたりしていて、仕事が終わるのは早くても午後八時を回ったころ。とっくに私の店は閉まっている。

彼もまた私に負けず劣らずの仕事人間だから、互いの休日を合わせるのも難しい。よって、どうしても作り立てを味わってもらうのは困難な状況になってしまっていた。

 

 

28:名無しさん:2023/10/04(水) 23:21:34 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚ー゚*ζ(……ちょっとでも、助けになれば、いいんだけど)

 

さきほどの彼の要望で、疑問は確信に変わっていた。

ニュッは疲れている。それも相当に。

何もお土産を買わずにうちに来たのも、あまりの疲れに体力が限界だったからだろう。

 

自分の菓子で元気になってくれるのなら、何かしらはしてあげたい。

そんなことをぼんやり思いながら、鍋の水気を丁寧にふき取る。

すると、ふと、遠くから廊下を歩くような足音が聞こえた。

 

ζ(゚、゚*ζ「………?」

 

さっとリビングに顔を覗かせる。

いつの間にか、あの唐変木がいない。

つい先ほどまで雑に脱ぎ散らかされていた筈のジャケットなども見当たらない。

 

玄関の方から、"ガチャ"っという音がした。

 

 

29:名無しさん:2023/10/04(水) 23:23:38 ID:tie1mNy60

 

 

ζ(゚皿゚#ζ「待たんかいボケェ!!!自分の分の食器くらい片付けろーーー!!!」

 

 

鍋もタオルも放りだし、激昂と共に猛ダッシュで玄関へと向かう。

ついでに材料費も根こそぎ取ってやる。心にそう決めながら、いそいそと革靴を履いているニュッの首根っこを摑まえ、部屋に引きずり戻していった。

30:名無しさん:2023/10/04(水) 23:26:26 ID:tie1mNy60

 

 

 

( ^ν^)「ただいま戻りましたー…」

 

我ながら覇気のない声だと、口にだして自分に少し驚く。

周囲からの「お疲れ様です」という声に軽く会釈をしながら、自分のデスク前にある椅子にどさっと腰を下ろした。

 

( ^”ν^)(……さっさと選任届くらい受け取れや……)

 

目頭を軽く目で押さえながら、先ほどまで対応していた警察署への文句を心中で垂れる。

しばらくそうした後、次は何をしなければならないのかと鞄から手帳を取り出した。

 

中を開く。スケジュールは曜日、時刻を問わずびっしりと埋まってしまっている。

馴染みの友人がやっている洋菓子店には、どう考えても行けそうになかった。

 

 

31:名無しさん:2023/10/04(水) 23:27:23 ID:tie1mNy60

 

( ^ν^)(あれから2週間くらいか)

 

以前、幼馴染の家に食事をたかった上に自分の好きな菓子を作ってもらうと約束してから、そこそこの日数が経っていた。

 

スマホを開き、メッセージアプリを起動する。

『津島デレ』と表示された幼馴染とのトーク画面は、彼女からの「暇な日、決まったら連絡してね!」という文章とスタンプで終わっていた。

 

ちらりと卓上のカレンダーを確認する。

今日は金曜日。あいにく、デレの店は休業である。

せっかく珍しく18時で帰れそうだと言うのに、これでは全く喜べない。

 

次の休みはいったいいつになるのだろうか。

手帳をいくら睨んだところで、書かれたスケジュールが魔法のように消えてくれる訳ではない。

はぁと諦観のため息を吐いた次の瞬間、ぱんと、勢いよく肩を叩かれた。

 

 

32:名無しさん:2023/10/04(水) 23:29:02 ID:tie1mNy60

 

(*-@∀@)「や!お疲れニュッくーん!」

 

( ^ν^)「触るなアサピー、クリーニング代請求すんぞ」

 

(;-@∀@)「えっ、俺もしかして雑菌扱い?」

 

相変わらず軽々しい同僚からのスキンシップを手で払いのける。

『旭川アサピー』。司法修習からの同期で、何の縁か所属している事務所まで同じになってしまった腐れ縁だ。

 

( ^ν^)「何の用だよ。俺もう帰るんだけど」

 

(*-@∀@)「おっ、マジ!?俺も終わったんだよ!よっしゃ、今から飲みにでもさ」

 

( ^ν^)「ごめん腹痛くなる気がするから無理だわ」

 

(-@∀@)「もうちょいマシな断り文句考えて」

 

( ^ν^)「そもそも俺、車通勤だし」

 

(-@∀@)「うっわマジでちゃんとした理由つけてきやがった」

 

デスクの上を整理する俺の様子も顧みることなく、アサピーは「そんなことよりさ」と会話を続ける。

彼の眼鏡の奥には、下世話な話を始める時特有の光が灯っているのが見える。

死ぬほどめんどい。心の底からそう思いつつ、「なんだよ」と聞いてみることにした。

 

33:名無しさん:2023/10/04(水) 23:29:53 ID:tie1mNy60

 

(*-@∀@)「ほら、先週の、どうだったんだよ」

 

( ^ν^)「……先週?」

 

(*-@∀@)「とぼけんなよ~!ほら、別ファームとの合コンでさ!お前、綺麗な子一人捕まえて先帰ったじゃん!」

 

うざったい彼の言葉に、先週のことを思い返す。

その時の出来事を思い返した俺は「あぁ」とだけ短く返した。

 

( ^ν^)「どうもなにも…駅まで送って、それだけだよ」

 

先週、今まさに眼前にいるクソ眼鏡の言葉に乗せられて参加した、懇親会でのこと。

いや、そもそも懇親会などではない。うちの事務所の男どもがどこぞのツテで企画した、まぎれもない合コンに俺は巻き込まれたのだ。

その時、少し酒を飲みすぎて気分が悪そうにしていた子がいたから、彼女をダシに早々に離脱しただけ。それ以上でも以下でもない。

 

 

34:名無しさん:2023/10/04(水) 23:30:43 ID:tie1mNy60

 

Σ(;-@Д@)「は!?おまっ…、まーた何もせず帰したの!?」

 

( ^ν^)「次の日、朝から接見だったし…」

 

(#-@∀@)「このっ…!仕事人間…!!」

 

唇をわなわなと震わせながら、俺の背中をポカポカと叩いてくる。

次の飲み会では酔っぱらったふりして一発殴ろうと心に決めているその最中、ふいにアサピーは不思議そうな顔をした。

 

(-@∀@)「…実際のとこ、何がダメなんだ?あの子は結構いい子そうだったじゃん」

 

(-@∀@)「今のうちに少しは遊んどかないと、30代になったとき、割と困るぞ?」

 

(-@∀@)「嫌だぜ~?同期の死因が孤独死!な~んて」

 

アサピーからの言葉に顔をしかめる。

「余計なお世話だ」と言いたいのは山々だが、おちゃらけた言動からはほんの少しの理と思いやりが感じられた。

 

確かに、今の自分たちの年齢では恋人がいた方がいいのだろう。

いや、そもそも弁護士という職務はただでさえそのパーソナリティを他人から詮索されやすい職務だ。

 

結婚しているかどうか。恋人がいるかどうか。

年齢に応じて一般的とされているようなパートナーがいないとなると、途端に下に見られたり、訝しまれることが多い。

将来的に、仕事に支障が出やすくなる可能性もあるだろう。

 

 

……それは分かっている、が。

 

 

35:名無しさん:2023/10/04(水) 23:31:35 ID:tie1mNy60

 

( ^ν^)「……興味、ないから」

 

(-@∀@)「その台詞が許されるのはFFの主人公だけだぞ」

 

「それも7だけ」というアサピーのよく分からない台詞を聞き流しながら、デスクに溜まっていた書類を束ねて隅に置く。

これらは全て明日以降に対応する案件だ。今日はもう早く帰りたい。

 

(*-@∀@)「あ、そうだ!俺、先週の合コンで仲良くなった子がいるんだけどさ~!」

 

そう言いながら、アサピーはいそいそと自分のデスクに移動する。

数秒後、彼は四角い無地の箱と、控えめに言って不愉快な笑みを張り付けながらこちらに来た。

 

 

36:名無しさん:2023/10/04(水) 23:33:21 ID:tie1mNy60

 

(*-@∀@)「見てこれ!その子が作ってくれたっていう、アップルパイ!」

 

( ^ν^)ピクッ

 

“アップルパイ”という言葉に対し、身体が勝手に反応する。

アサピーが開いた箱に目をやると、その中には甘い香りが漂う円状のパイがあった。

 

(*-@∀@)「これがめっちゃ美味いんだよ!お前、甘いもの好きだろ?一個やるよ!」

 

均等に切り分けられた1ピースをじっと見る。

暫くそれを見た俺は「いらん」とだけ返し、鞄を持って立ち上がった。

 

(;-@∀@)「えっ!?な、なんで!?お前いっつも皆が買ってきた土産の甘いもの食うじゃん!それも率先して!」

 

( ^ν^)「世界で一番うまいアップルパイを知ってる」

 

驚きの声にまともに取り合うことなく、ぎゃあぎゃあと喧しい眼鏡に背を向けた。

 

 

37:名無しさん:2023/10/04(水) 23:37:31 ID:tie1mNy60

 

確かに、俺は甘いものが好きだ。

昼食をケーキなどで済ませるなんてザラだし、夜にパンケーキを食べることもある。

 

同僚や上司が買ってきた土産がスイーツの類ならすぐ貰いに行く。

以前貰った福島の「エキソンパイ」というのは特に良かった。自分が仕事で福島に行った時は箱買いして店員にドン引きされたが、あれはそれほどの価値がある土産だった。

 

その中でも、一番好きなのがリンゴを使ったスイーツだ。

アップルパイにタルトタタン、果てはウィーン菓子のアプフェルシュトゥルーデルに至るまで。

 

だからこそ、食べずとも分かることがある。

俺はアサピーが持っている箱を指差し、落ち着き払った精神のまま口を開いた。

 

( ^ν^)「それ、既製品だぞ。ちょっと上から粉糖かけてるだけ」

 

(-@∀@)「…………へ?」

 

詐欺にあった主婦のように、口をポカンと開けるアサピー。

この前相談に来たクライアントもこんな顔をしてたなと思いながら、俺は説明をすることにした。

 

 

38:名無しさん:2023/10/04(水) 23:39:07 ID:tie1mNy60

 

( ^ν^)「『ママーズ』っていう、割と有名なアップルパイの店のやつだ。俺の母校の近くに本店があって、そこはレモンパイとかも売ってる」

 

(;-@∀@)「えっ…いや、いやいや、作ったって言ってたけど……」

 

( ^ν^)「特徴的なリンゴのサイズに、生地の厚さ。それを家で作るのは余程の機材がないと無理だ」

 

(;-@∀@)「み、見ただけで分かる訳…」

 

( ^ν^)「……バターの香り、ちょっと強くなかったか?」

 

俺の言葉に、アサピーの表情が凍り付く。

どうやら図星を突いてしまったらしい。

 

( ^ν^)「……少なくとも、その女はやめといた方がいいぞ」

 

石のように固まってしまったアサピーとの会話を一方的に打ち切り、同僚たちに「お疲れさまでした」と言いながら職場を出る。

無駄にお洒落に見えるガラスのドアを開けて受付の女性に挨拶をした後、エレベーターのボタンを押した。

 

 

39:名無しさん:2023/10/04(水) 23:40:44 ID:tie1mNy60

 

 

( ^ν^)(…あの店のも美味いんだけどな)

 

エレベーターを待ちながら、先ほど見せられたアップルパイを頭の中でもう一度思い描く。

大学生の頃、たまに買いに行った店だ。最近は他の場所にも店舗を出していて、その味は昔から全く変わることはない。

決して不味くはない。いや、むしろかなり美味しい。

有名なアップルパイの店は数あるが、その中でも更に上位に入るだろう。

 

だが、食べる気にはならなかった。

知っている味だから、ではない。ましてや、既製品を手作りだと偽った顔も知らない女に腹を立てた訳でもない。

 

昔から、正確には幼馴染が菓子作りを始めた中学の時から。

手作りアップルパイは彼女のものしか食べないと決めている。

彼女が作るもの以上に美味しいスイーツなどこの世にない。これは贔屓ではなく、確信だ。

 

 

40:名無しさん:2023/10/04(水) 23:41:46 ID:tie1mNy60

 

ふと、見せられたアップルパイから連鎖して、アサピーがさっきしてきた話を思い出す。

“ちょっとは遊ばないのか”

アサピーだけではない。他の友人や上司からも、耳にタコが出来るほど頻繁に言われる言葉。

 

他人の恋愛事情など放っとけばいいのに、いつまで頭が中学生気分なのか。

心の中で毒づいてすぐに自嘲の笑いが漏れる。

いつまでも中学生の頃から進歩がないのは、自分も同じか。

 

( ^ν^)(一人暮らしの家に、男を軽々しくあげるか?普通)

 

幼馴染のことを考える。

高校を卒業してから互いに進路は別になったというのに、今でも交流が続いている異性の親友。

 

ζ( ― *ζ

 

…恋愛に興味がない訳ではない。極めて一般的な嗜好を持つと自分でも自負している。

食事をたかるのも、スイーツを貰いに行くのも、時間が少しでも空けば彼女の所を訪れるのも。

どれも、なんてことはない。ただ口実を見つけては会いに行っているだけだ。

 

 

41:名無しさん:2023/10/04(水) 23:43:30 ID:tie1mNy60

 

( ^ν^)(…ショソン・オ・ポム、食いてぇなぁ)

 

10年以上前の。ずっと昔のことを想起する。

 

きっと彼女は覚えていない。焼きたての、少し不格好なショソン・オ・ポム。

いつの間にか見た目も味も、当時のそれとは比較にすらならないほどに洗練されている筈なのに。

それでもどうしてだろう。あの時のパイの方が、今の彼女が作るスイーツよりずっとずっと美味しく感じた。

 

 

42:名無しさん:2023/10/04(水) 23:44:09 ID:tie1mNy60

早く帰って眠ろう。近頃はろくに睡眠すらとれていない。

思考をむりやり中断し、呆けたまま大人しくエレベーターが来るのを待つ。

 

( ^ν^)「………うん?」

 

ふと、ポケットが振動した気がしてスマホを取り出す。

画面には、つい先ほどまで脳裏に浮かべていた幼馴染の名前が表示されていた。

 

 

『今日、何時に終わる?待ってるね』

 

 

メッセージと共に添付されていた写真をタップし、拡大する。

そこに映っていたのは、今まさに自分がいるビルだった。

 

(; ^ν^)「…………は?」

 

驚きの声と共に、すぐ目の前から聞き馴染みのある機械音が鳴る。

何がなんだかよく分からないままエレベーターに飛び乗り、とにかく急がなければと1階のボタンを連打した。

43:名無しさん:2023/10/04(水) 23:45:07 ID:tie1mNy60

 

 

 

エレベーターから転がるように出て、ロビーの中を走って進む。

やけに開くのが遅く感じる自動ドアに苛々しながら外へ出る。

キョロキョロと辺りを見渡すこと数秒、視界の中に見慣れた女性が座っていることに気が付いた。

 

一瞬、誰だか分からなかったほどにお洒落な恰好をしていた。

 

ふわりと纏められた髪型に、随分と可愛らしいストライプのフレアスカートが寒風に靡いているのが見える。

少なくとも、長年の付き合いである自分ですらあまり見かけない恰好だった。

 

彼女がパッと顔を上げる。

向こうも自分に気付いたようで、随分と大きい荷物を持ったまま小走りでこちらに駆けてくる。

自分も行こう、そう思って足を踏み出した瞬間、彼女の姿勢が大きく崩れた。

 

ζ(゚、゚;ζ「きゃあっ!?」

 

(; ^ν^)「うおっ!?」

 

慣れないヒールを履いているからか、思いっきり躓いたデレを間一髪で支える。

デレは少し驚いたような表情を浮かべた後、バツが悪そうにへへっと笑った。

 

 

44:名無しさん:2023/10/04(水) 23:45:58 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚ー゚;ζ「あ、あぶな~…ナイスキャッチ!」

 

(; ^ν^)「ヒールならもうちょっと慎重に歩け…!」

 

足を捻っていないかどうかを確認した後、彼女からさっと手を離す。

鼻腔に残った甘い香りに、何故か少しの罪悪感が湧いた。

 

ζ(゚ー゚*ζうぇへへ…まぁまぁ!てか、今日めっちゃ早いね?どしたの?」

 

( ^ν^)「……たまたま、今日は早く終わった」

 

ζ(゚、゚*ζ「おっ!もしかして、ナイスタイミングだった?」

 

( ^ν^)「どっかに監視カメラでもあったのかと思うくらいには」

 

ζ(゚ー゚*ζ「ひゅう!私って幸運!いや~最悪、君の車で待たせてもらおうと思ってたからさ~」

 

いつもより少しだけ遅いデレの歩幅に合わせつつ、話をしながら歩き出す。

うちの事務所と提携している、ビルのすぐ隣にある駐車場。

そこに向かうことにデレから修正の声が上がらないことから、俺の車に同乗する気満々なのだろう。

 

 

45:名無しさん:2023/10/04(水) 23:47:32 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚ー゚*ζ「そういえば、さっき待ってる時めっっちゃ綺麗な子がいたの!気付いた!?大学生くらいの子!」

 

( ^ν^)「いや知らん。どっかの誰かさんの間抜けな姿は見たけど」

 

ζ(゚、゚#ζ「それ蒸し返す必要あるか?」

 

( ^ν^)「…てか、結局どこ行きたいんだよ」

 

ポケットから車のキーを取り出し、片手間でロックを解除した。

大学の先輩から中古で譲り受けたものだが、中々気に入っている。

 

ζ(゚ー゚*ζ「えっ君の家だけど」

 

( ^ν^)「ああそう」

 

簡潔な返事を返し、後ろのドアを先にあけて荷物を適当に放り込む。

運転席に乗り込むと、いつの間にか助手席でシートベルトに四苦八苦しているデレの姿が視界の隅に見えた。

 

エンジンを入れると同時に、搭載されていたナビが光る。

発進しようとアクセルを踏み込んだその瞬間、俺はぐっとブレーキを踏んで止まった。

 

 

46:名無しさん:2023/10/04(水) 23:48:01 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚―゚;ζ「うわっ!ちょ、ちょっと何?」

 

未だにシートベルトを装着できていなかったデレから非難の声があがる。

だが、そんな声に謝意の言葉を返すこともなく、俺は隣に顔を向けた。

 

(; ^ν^)「俺ん家!?」

 

ζ(゚、゚*ζ「そうだけど」

 

「なにびっくりしてるの」とでも言いたげな瞳がこちらをまっすぐ見つめてくる。

呆気にとられた俺を嘲笑うように、初期搭載されたカーナビが「急ブレーキは控えて下さい」と機械的な注意を述べた。

47:名無しさん:2023/10/04(水) 23:48:30 ID:tie1mNy60

 

 

 

ζ(゚、゚*ζ「わ~!相変わらず、つまんない部屋!」

 

( ^ν^)「…どーも」

 

私では到底住めそうにないマンションの20階。

リビングの中心にぽつんと置かれたソファーに私はどさりと腰を下ろした。

 

一人暮らしにしては中々に広い1LDK。

リビングには冷蔵庫とテレビ、食事用のテーブルにソファー。それだけ。

広さの割には物がない。以前ここに来た時から部屋の内装はなんら変わっていないようだった。

 

( ^ν^)「…で、何しに来たんだよ」

 

自分の部屋だというのに、ニュッはどこか居心地が悪そうに突っ立ったままでいる。

いったい何に遠慮しているのだろうと疑問に思いながら、私は持ってきた荷物をテーブルに乗せた。

 

 

48:名無しさん:2023/10/04(水) 23:49:49 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚、゚*ζ「前に言ったじゃん。ショソン・オ・ポム、食べさせてあげるって」

 

ζ(゚ー゚*ζ「どうせなら出来立て食べて欲しいんだよね。でも、君と私の時間ってあんまり合わないし、合ったとしても夜じゃん?私の店、閉まってるじゃん?」

 

ζ(^―^*ζ「そこで、思いついた訳なのです!」

 

にっこりスマイルを維持しながら、持ってきたものをドサドサと取り出していく。

冷凍パイシートに無塩バター、そして一番肝心なリンゴ。

これもただのリンゴではない。とあるツテで手に入れた、スーパーでは手に入らないレベルの立派な“秋映”だ。

 

 

49:名無しさん:2023/10/04(水) 23:53:43 ID:tie1mNy60

 

(; ^ν^)「…まさか、うちで作る気か!?」

 

ζ(゚ー゚*ζ「そ!ちょっと簡易的なものになるけど、何を隠そう私はプロ!」

 

ζ(^―゚*ζ「お家で作れるショソン・オ・ポム!御覧に入れて、魅せましょう!」

 

まだ何か言いたげなニュッを無視して、材料を抱えたままキッチンへと移動する。

彼がここに引っ越してきた時にプレゼントした調理器具や機材は、どれもそのままあるようだった。

どれも頻繁に使われた様子こそないが、汚れや埃などは溜まっていない。

丁寧に扱われているようで、私は少し気恥ずかしくなった。

 

(; ^ν^)「ちょ、ちょっと待て!それならわざわざ俺ん家に来なくたって…!」

 

ζ(^―^*ζ「まあまあ、また今度生地から作ったヤツも用意しとくから!」

 

ぎゃあぎゃあと喚く幼馴染をキックでキッチンから追い出し、必要なものを並べていった。

 

 

50:名無しさん:2023/10/04(水) 23:54:46 ID:tie1mNy60

冷凍パイシート。りんご3個。無塩バター30g。甜菜糖60g。少しのバニラエッセンス。光沢を出すために使う卵一つ。

大体これで10cm弱のものが12個くらい出来る量だ。

 

これはあくまでも私の場合だ。

甜菜糖は、夜ご飯代わりにスイーツはちょっと…という私のなけなしの乙女心からくる反骨精神が理由であり、別に普通のグラニュー糖でも構わない。

パイシートから型を取るのにはセルクルという物を使うが、これも切ったペットボトルやワイングラスなどで代用できる。

お家でも作れる材料だけでやる。それが今回の私の目標だ。

 

まずは丁寧に皮を剥いたカットしたリンゴを用意する。皮はあったらあったで煮崩れしないというメリットがあるのだが、今回はシンプルにナシでいく。

ちなみに皮はある程度シロップに使うので残す。まぁ、これも要らないなら捨てていい。

リンゴは火を通すと小さくなるので、予め厚めにカットしておく。

 

 

51:名無しさん:2023/10/04(水) 23:55:17 ID:tie1mNy60

 

ちょっと余ったリンゴ→〇ζ(゚、゚*ζ

 

〇ζ(゚、゚*ζ「………」

 

ζ(゚∩゚*ζハムッ

 

ζ(゚ワ゚*ζオイシー!

 

余った秋映をつまむ。

数あるリンゴの中でも、秋映は特にそのジューシーさが強い。

秋になってより増した甘味とほんのり香る酸味が、果汁とともに洪水のように噛めば噛むほど溢れてくる。

そのまま食べてもよし。スイーツに使ってもよし。まさに、リンゴの代表格だ。

 

 

52:名無しさん:2023/10/04(水) 23:55:52 ID:tie1mNy60

フライパンにバターを入れて熱している間、シロップも同時並行で作る。

砂糖と水、そして先ほどリンゴをカットして余った皮を手鍋に入れて煮込む。

下から泡が出てきて充分煮詰まったら火を止める。

これは後々、出来上がった完成品に塗るためのものだ。

 

フライパン内のバターが泡立ってきたらリンゴを投入。甜菜糖や少しのバニラエッセンスを加えつつ、中火に落としてじっくりとリンゴに火を通していく。

特に秋映は果汁が多い。水分を飛ばしつつ、なおかつ秋映特有のしっかりとした食感を残しつつ、煮詰めるのは10分程度に留めるのがポイントだ。

 

火が通ったら一度別皿に移して放置。

その間にパイ生地の準備だ。

 

 

53:名無しさん:2023/10/04(水) 23:56:45 ID:tie1mNy60

打ち粉をした上に乗せるのは超便利な冷凍パイシート。

パティシエなのに生地を作らないのかと問われれば、作らない。

店で出すのならまだしも、今回はあくまで仕事に疲れ切った幼馴染に出すための即席バージョンだ。

だからといって美味しくない訳ではない。冷凍パイシートは菓子作りをする人間にとってはノーベル賞ものの発明である。

 

準備しておいたセレクルでパイシートから生地を丸く切り取り、それらをしっかり楕円形に伸ばす。

ほんのちょっとだけ水を含ませた卵黄を溶き、パイ生地に端までしっかりと塗っていく。

 

その後は生地にリンゴを乗せ、餃子を作るときみたいにしっかりと生地を合わせる。

この際、焼いた時に中身が破裂しないよう少しだけを小さな穴を空けることが肝要だ。

 

再び生地に卵黄を塗り、包丁の背で軽く筋を入れる。これがショソン・オ・ポム特有の葉の模様だ。

後は、200度のオーブンで20分ほど焼く。

 

最後に焼きあがった表面にシロップをたっぷりと塗る。

これで出来上がり。待望のショソン・オ・ポムの完成だ。

 

 

54:名無しさん:2023/10/04(水) 23:57:14 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚、゚*ζ「よーし、後は待つだけ…!」

 

私がプレゼントしたオーブンを操作し、ふぅっと小さな息を吐く。

そういえば、肝心の家主は一体何をしているのだろう。

 

無駄に広いキッチンを出て、リビングをのぞき込む。

部屋の中心には、律儀にテーブルの椅子に座って固まっているニュッの姿があった。

 

ζ(゚、゚*ζ「……何やってんの?」

 

( ^ν^)「…いや、その、待ってるだけ」

 

母親に怒られた後の子どもみたいに、どこかよそよそしさを感じさせる風体であった。

そんな風に待っているだけなら飲み物やフォークの一つでも用意して欲しいものだ。

そう考えると同時に、もう一つ私の頭に疑問がふって湧いた。

 

 

55:名無しさん:2023/10/04(水) 23:57:58 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚、゚*ζ「てゆーか、そこで待ってても意味ないでしょ。ほら立つ!」

 

ニュッが座っている椅子を引き、半ば無理やり立ち上がらせる。

いつの間にか20cm以上離されていた背中をぐいぐいと押しながら、私は彼をベランダへと追いやった。

 

(; ^ν^)「お、おい!何だよ!」

 

ζ(゚、゚*ζ「何って、ベランダ出ないと」

 

(; ^ν^)「はぁ?」

 

ζ(゚、゚*ζ「…あ、言ってなかったっけ」

 

勝手知ったる我が家のように、閉じられていたカーテンを開ける。

流石は都内に聳える高層マンションの20階だ。

カーテンを開けた先に見えた窓越しの景色からでも、くっきりと目当ての淡い光が見て取れた。

 

 

56:名無しさん:2023/10/04(水) 23:59:52 ID:tie1mNy60

 

ζ(゚ー゚*ζ「今日ね、満月なのよ」

 

窓を開け、置いてあったサンダルを履いてベランダに出る。

温暖だった部屋の中とはまるで異なる秋風に身を震わせながら、私は大きく腕を広げた。

 

ζ(゚ー゚*ζ「せっかくの満月と、こーんな広いベランダがあるんだから」

 

ζ(^ワ^*ζ「――やりましょ!月見酒ならぬ、月見スイーツ!」

 

風に吹かれる髪を手で軽く押さえながら、部屋の中で呆然と立っているニュッに向き直る。

彼は一瞬だけその切れ長の瞳を大きく見開いた後、小学生の頃みたいな笑みを浮かべて、「厳密には、今日は十六夜月だぞ」と揶揄うように言った。

57:名無しさん:2023/10/05(木) 00:00:20 ID:Q0Xg299o0

 

 

 

( ^ν^)「……よし、こんなもんか」

 

会社の同僚に貰ってから、ずっと寝室の隅に放置していた簡易的なキャンプセットを眺める。

まさか、自分の家のベランダで初めて使うことになるとは夢にも思っていなかった。

 

風で飛ばされないように、あまり前には出なさすぎないような場所にセットを広げる。

小さなテーブルに、コンパクトながら頑丈なクッション付きの椅子が二つと灯り確保用のランタンが一つ。

隅には身体が冷えすぎないよう、ヒーターも念のため置いておいた。

 

 

58:名無しさん:2023/10/05(木) 00:01:03 ID:Q0Xg299o0

先日買ってから空けていない日本酒を置き、その横にお猪口を二つ用意する。

大学生の頃、司法試験の合格が決まった直後にテンションで向かった沖縄で買ったものだ。

 

“琉球グラス”と言われる代物である。

片方は静かで煌びやかな青で、もう片方には絢爛で目を惹きつけられる赤で彩られている。

夜の黒を取り込んだそれは、まるで宇宙そのもので作られたかのような妖しげな魅力を放っていた。

 

ふと、コンコンという音が後ろからしたのに気付いた。

ふりむくと、両手が皿で塞がっているデレが立っている。

どうやらスイーツを運ぶのに精一杯で窓を開けられないらしい。

 

ζ(゚ー゚;ζ「うおっ寒~!もう秋だか冬だか分かんないね~!」

 

( ^ν^)「そんな時期にベランダで月見やる奴も大概分かんねぇけどな」

 

ζ(゚、゚*ζ「そんな女に付き合う君もね」

 

二人で顔を見合わせて笑った後、出しておいたテーブルの上に大きな皿が置かれた。

並んで置かれた椅子に座り、中心で湯気と甘い香りを漂わせているそれをのぞき込む。

皿の上には、ずっと待望していたショソン・オ・ポムが均等にいくつも置かれていた。

 

 

59:名無しさん:2023/10/05(木) 00:01:44 ID:Q0Xg299o0

 

ζ(^―^*ζ「お待たせしました!ご注文の、“ショソン・オ・ポム”です!」

 

自信満々に胸を張るデレが、座りながら大きな瞳をこちらに向けてくる。

どうやら先に自分から食べろと暗に言っているようだった。

 

手を合わせ、一番手前にあったパイを手に取った。

テーブルの隣に置いてあるランタンと上空に輝く月光がパイの表面に反射して、光り輝いているようにも見える。

表面に刻まれた普通のアップルパイにはない模様が、黄金で出来た木のようにも見えた。

 

顔に近付けると、焼きたて特有の何とも言えない香りが鼻に届いた。

ほのかに香るリンゴとバニラもまた、より一層お腹を空かせる。

デレから向けられる視線を気にすることなく、大きく口をあけてショソン・オ・ポムにかぶりついた。

 

 

60:名無しさん:2023/10/05(木) 00:02:13 ID:Q0Xg299o0

 

(* ^ν^)「…………!!」

 

焼いたばかりのサクサクの生地から現れた、シャクシャクとしたリンゴの食感。

最初の一口目から、口の中がじゅわりとした果汁で満たされた。

 

(* ^ν^)モグモグ

 

秋を迎えてほどよく熟れたリンゴの甘味が、果汁と共にサクサクの生地を良い具合にほぐしていく。

表面に塗られたシロップによって生地自体も美味しく感じられた。

口の中の甘ったるさも、スイーツ特有のしつこさを思わせることはない。

僅かに残されたリンゴの爽やかな酸味で見事に打ち消されているからだ。

 

はふはふと口の中の熱を外に逃がしながら咀嚼を続ける。

口の中から溢れた果汁を指で拭い、再び咀嚼。

無限に溢れてくる果汁を必死に飲み干していく。

 

分厚くカットされたリンゴは火を通した後でも、その存在を食感により強く主張していた。

それを優しく包み込んだ焼きたてのパイ生地。

美味しくない訳がない。それでも、これほどまでとは思っていなかった。

 

 

61:名無しさん:2023/10/05(木) 00:02:47 ID:Q0Xg299o0

無言のまま只管に食事を続ける。

気が付けば、割と大きめに作られていた筈のパイはリンゴの一欠片も残さず消えていた。

 

用意しておいたおしぼりで軽く手を拭く。

冷たい夜風が火照った頬を撫でていくと同時に、俺はずっと隣から浴びせられていた視線の存在をようやく思い出した。

 

ζ(゚―゚;ζ「…………」

 

自分の方を見ながら、刑事裁判で判決が言い渡されるのを待つ被告人を思わせるような緊張した面持ちを浮かべているデレ。

頭の中で言うべき言葉を整理し終わった俺は、ゆっくりとデレの方を向き、視線を少しずらして口を開いた。

 

 

62:名無しさん:2023/10/05(木) 00:03:46 ID:Q0Xg299o0

 

( ^ν^)「…………美味い」

 

ζ(゚、゚*ζ「………!」

 

( ^ν^)「美味いよ、コレ。本当に」

 

( ^ν^)「……少なくとも、都内でこれより美味い店は、知らない」

 

必死に考えた割には、小学生の読書感想文のような語彙だけが口から飛び出す。

がっかりしただろうか。拍子抜けさせてしまっただろうか。

そう思いながら、俺はちらっとデレの方に目を向ける。

 

ζ(― *ζ

 

彼女の頬が、リンゴみたいに紅くなっているのが見えた。

 

 

63:名無しさん:2023/10/05(木) 00:04:16 ID:Q0Xg299o0

 

ζ(、 *ζ「……そ、そっか」

 

さっきまで向けられていた熱視線はどこへ消えたのか。

俺と視線を合わせないどころか、こちらを見ようとすらしない。

 

互いに無言のまま、気まずい空気と冷風だけがベランダを流れていく。

そんな雰囲気を誤魔化すかのように、デレは「わ、私も食べよう!」と言ってパイに手を伸ばした。

 

ζ(´~`*ζサクサクウマー

 

パイを口に入れた途端、さっきまでの表情が嘘のように間抜けな顔になった。

そのまま何も言わずにムシャムシャとパイを咀嚼していく。

ふと、パイの光沢で艶やかに光る彼女の唇に気付き、何だか気恥ずかしくなった俺はそのまま視線を月へとずらした。

 

 

64:名無しさん:2023/10/05(木) 00:04:49 ID:Q0Xg299o0

 

( ^ν^)「………」

 

もう一つパイを手に取り、食べながら空に浮かんだ月を見る。

ぱっと見ただけでは満月に見えるだろうが、よくよく目を凝らすと少し欠けているのが分かる。

人々が望むような満月は、どうやら昨日で終わっているようだった。

 

( ^ν^)「あっ、そうだ」

 

パイを一旦小皿に置き、テーブルの奥にある瓶を手に取る。

俺が持ったそれにようやく気付いたらしいデレは「おっ!」と嬉しそうな声を上げた。

 

ζ(゚、゚*ζ「ちょっとちょっと!何それ何それ~!」

 

日本酒の存在に気付いたデレのテンションが分かりやすく上がる。

“日高見 純米 秋あがり”。

先日、銀座にある馴染みの酒店で手に入れた逸品だ。

 

 

65:名無しさん:2023/10/05(木) 00:05:45 ID:Q0Xg299o0

宮城のお酒といえば日高見だと豪語する日本酒好きも多数いるほどに、有名な銘柄である。

“日高見”といえば、兵庫県にて厳選された山田錦から生み出されるスッキリとした辛口のキレが特徴だ。

それがじっくりと秋まで熟成されたことによって、“日高見”が本来持つ香りと爽快感がゆったりとした滑らかさに包まれている。

まさに今しか飲めない、秋酒の中でも至高の一品だろう。

 

ζ(゚―゚*ζ「やったやった!今年初の秋酒~!」

 

ニコニコしながら彼女はこちらにお猪口を差し向けてくる。

朗らかな笑みを浮かべる彼女を微笑ましく思いながら、俺はゆっくりと日本酒を注いだ。

そのまま流れる動作で瓶を渡し、今度は逆にこちらが注いでもらう。

互いに琉球グラスを軽くぶつけて乾杯をする。中で揺蕩う澄み切った透明の液体がふらりと揺れた。

 

 

66:名無しさん:2023/10/05(木) 00:06:31 ID:Q0Xg299o0

ほんの少量を口で含むやいなや、口の中で爽やかな香りが広がった。

 

日本酒というものは、必ずしも普通の料理にしか合わないものではない。

純米酒特有の爽快感やフルーティーな香りは、スイーツと組み合わせても見事な調和を醸し出す。

その絶妙な組み合わせは、時に普通の料理との兼ね合いすらも上回ることだろう。

 

ζ>、<*ζ「はぁ~!美味しい~!」

 

ちらりと隣を見ると、デレのお猪口は一瞬で空になっていた。

そのまま瓶を掴み、手酌で並々と日本酒を注いでいく。

年頃の女性とは思えないその様子に、俺は無意識にふっと鼻を鳴らした。

 

 

67:名無しさん:2023/10/05(木) 00:07:16 ID:Q0Xg299o0

 

ζ(゚、゚*ζ「そういえば、“ひやおろし”と“秋上がり”ってどう違うの?」

 

右手に酒、左手にパイを持ったままのデレが問いかけてくる。

味わっているのかいないのか、ムシャムシャと判然のつかない食べ方&飲み方をしているデレに内心呆れながら、俺はうろ覚えの知識を口にした。

 

( ^ν^)「あー…端的に言えば、“ひやおろし”は名称で、“秋上がり”は状態のことらしい」

 

そもそも、日本酒というのは基本的に二回“火入れ”という加熱殺菌作業が行われる。

“ひやおろし”とは、冬に絞った新種を春に一度だけ火入れし、二度目の火入れはせずにそのまま秋まで寝かせた酒のことだ。

普通の日本酒と違い、香りがより穏やかになるのと、味わいが濃厚かつまろやかになるのが特徴である。

 

そして“秋上がり”とは、秋までおいていた酒の質が変わることでより美味になったものの酒全般を指す。

要するに酒蔵によって呼び方を変えているにすぎない。

どちらにせよ、秋にしか飲めない美味しい日本酒のことだと理解していればそれで充分だろう。

 

 

68:名無しさん:2023/10/05(木) 00:09:10 ID:Q0Xg299o0

 

ζ(゚、゚*ζ「ふーん。大した違いないんだ」

 

ζ(^ワ^*ζ「それってめんどくさいね~!あっはは!」

 

空になったお猪口に酒を注いではまた飲み干すという行為をしながら軽快に笑うデレ。

今まさにめんどくさくなってきている彼女に言われては、全国の酒蔵も鼻白むというものだろう。

 

一人で盛り上がっているデレを尻目に、再びパイを齧る。

秋風に吹かれてちょうどいい温度になったパイもまた、先ほどとは違うしっとりとした甘さを感じられて実に美味であった。

 

まだ洋菓子の甘さが残っているうちに、すかさず日本酒を口に含む。

純米酒ならではの爽快感が、パイとリンゴの甘さを破壊することなく鮮やかに流していった。

ほのかに残る日本酒の苦みも、再びパイを食べれば濃厚な甘みを引き立てるエッセンスとなる。

 

まさに無限ループ。食べては飲み、飲んでは食べるの繰り返し。

これこそまさに、“良いペアリング”と呼んでも差し支えないものなのだろう。

 

 

69:名無しさん:2023/10/05(木) 00:10:41 ID:Q0Xg299o0

 

ζ(゚ワ゚*ζ「あっ、ほら見てニュッ!おっきい~!」

 

普段より1.3倍ほど大きいデレの声量に眉をしかめる。

隣を見ると、すっかり出来上がっているデレが真直ぐに月を指差していた。

 

余談であるが、デレがそこまで酒に強い訳ではない。

にもかかわらず、飲むペースを深く考えず水のように酒を飲むのだ。

ビールやハイボールならまだいい。だが彼女は日本酒やカクテルなど、比較的アルコール度数が高いものも関係なくゴクゴクといく。

お陰で彼女と外で飲むことに対し、強い忌避感を覚えるようになってしまった。

 

 

70:名無しさん:2023/10/05(木) 00:11:40 ID:Q0Xg299o0

 

ζ(´―`*ζ「ふふ、満月見ながらお酒とスイーツ!さ~いこ~う!」

 

( ^ν^)「だから、満月じゃないっての…」

 

ζ(゚、゚*ζ「細かいことはいいのっ!欠けてるほうが美しいの、あの、なんか変な像のように!」

 

( ^ν^)「ミロのヴィーナスくらいさっと出してくれませんかね」

 

俺の指摘など全く気にしていないかのように、デレはへらりと笑ってもぐもぐと口を動かす。

そんな彼女に呆れながらも、俺はまたパイを食べようとテーブルの中心に手を伸ばした。

 

( ^ν^)「にしても、めっちゃ作ったな」

 

ζ(^ー^*ζ「余った分は冷蔵庫に入れといたからね!」

 

( ^ν^)「おかわりあんのかよ」

 

“マジでどれだけ作ったんだ”と少し不安に思いながら口を開く。

その寸前、デレははぁっと白い息を漏らしながらこう言った。

 

 

71:名無しさん:2023/10/05(木) 00:15:22 ID:Q0Xg299o0

 

 

 

ζ(゚ー゚*ζ「月が綺麗ですねぇ」

 

 

 

パイを迎えようとしていた口が、ポカンと開いたまま制止する。

目を見開いて隣を見てみれば、発言した張本人は月を見ながら呑気に口をモグモグと動かしていた。

 

デレはお世辞にも勉強が得意ではない。

中学から高校まで、いくら彼女に勉強を教えても平均点が50を超えることはなかった。

“海がない県なんてあるの?”と問われた時は流石に面食らったものだ。

 

そんな彼女が、ミロのヴィーナスすら言えなかった彼女が、某文豪が訳したとされる一句を知っている訳がない。

そう思いながらも、どう返答すればいいのか分からなくなった俺は、思考を上手く纏められないまま漫然と口を動かした。

 

( ^ν^)「……"死んでもいいわ"…ってか」

 

ζ(゚、゚*ζ「はぁ?いきなり何言ってんの?」

 

少し震えていただろう俺の返答に、デレは眉をひそめながら首をかしげる。

呆気にとられる俺など目にも入っていないかのように、彼女は再びお猪口を傾けた。

 

 

72:名無しさん:2023/10/05(木) 00:16:09 ID:Q0Xg299o0

 

( ^ν^)「……馬鹿みたいだな」

 

ζ(゚、゚*ζ「だれがぁ?」

 

( ^ν^)「俺もお前も」

 

ζ(゚ー゚#ζ「なんやと!誰がバカだぁ!」

 

既に焦点が合っていない目をシカトしつつ、勢いよくお猪口を呷る。

 

勢いよく流れる大量の日本酒が、その豊かな味わいを舌の上で広がることもないままにスルリと喉を焼いていった。

73:名無しさん:2023/10/05(木) 00:16:42 ID:Q0Xg299o0

 

 

*

 

 

ζ(- -*ζスースー

 

(; ^ν^)「……よくこんな寒い中で寝れるな…」

 

ベランダで月見を始めておよそ2時間。

すっかり空になった瓶を片付けて戻ってみれば、先ほどまでうんざりするほど喧しかった幼馴染は静かに寝息をたてていた。

 

もう一度部屋に戻り、持ってきた手頃な毛布をデレにかける。

幸せそうに口をもにゅもにゅと動かす彼女を一瞥した後、俺は再び隣の椅子に腰を下ろした。

 

 

74:名無しさん:2023/10/05(木) 00:17:25 ID:Q0Xg299o0

肘掛けを使いながら拳に頬をあて、夜空に輝く月を見る。

自然の光とはとても思えない、淡いながらも強い光。

 

テーブルにぽつんと置かれた最後のショソン・オ・ポムを手に取る。

月を見ながら齧ったそれは、すっかり焼きたての熱を失っていた。

 

( ^ν^)モグモグ

 

だからといって、その美味しさまで失われた訳ではない。

むしろ、生地やリンゴのしっとり感が増していて、これはこれで別の美味しさが感じられて良い。

温度が下がったことでぎゅっと中に閉じられた果汁が、凝縮された旨味とともに舌を踊る。

 

冷めても美味しいどころか、冷めたからこそ新たな良さが生まれるように作られた菓子。

それを作ったのが間抜け面で眠っている同い年の幼馴染だというのだから、人は見かけによらないものだとつくづく思い知る。

 

 

75:名無しさん:2023/10/05(木) 00:18:20 ID:Q0Xg299o0

 

( ^ν^)人「………ごちそうさま」

 

手を合わせ、空になった小皿を見る。

眠っているデレの方向に、何も乗っていない小皿を動かした。

昔から俺が彼女によくやる、“おかわり”のサインである。

 

中学生の頃、デレと会話をするのがなんとなく気恥ずかしく思う時期があった、

学校ではとんと喋らない。だが、彼女が新しく始めた祖父の手伝いとやらには駆り出される。

当然、話をしないといけない。なのに、上手く彼女と話すことができない。

そんな中、“おかわり”とすら上手く言えなかった臆病者の自分が生み出した、精一杯のコミュニケーションがこれだった。

 

大人になった今では、そんな思春期特有の感情などは流石にない。

それでも、自分でもよくわからないが、このサインだけは続けていた。

 

 

76:名無しさん:2023/10/05(木) 00:19:28 ID:Q0Xg299o0

 

( ^ν^)(……一人暮らしの男の家で、無防備に寝るようにもなったか)

 

月から視線を外し、眠ったままのデレを見る。

信頼されているのか、それとも舐められているのか。

どちらにせよ、一人の男としてはどうしても情けなさを感じざるを得ない状況であることには間違いない。

 

さきほど、デレの口から飛び出た言葉を想起する。

 

  ζ(゚ー゚*ζ『月が綺麗ですねぇ』

 

彼女としては、何とはなしに言った言葉なのだろう。

なけなしの勇気を総動員して振り絞った返答にも首を傾げていたことから、まず間違いなく“そういう意味”はない。そもそも、よく考えれば彼女がこんな風流な意訳を知っているとは思えない。

 

それでも、彼女にとっては何の意味もない筈の言葉が、鼓膜に焼き付いて離れなかった。

 

 

77:名無しさん:2023/10/05(木) 00:20:20 ID:Q0Xg299o0

 

( ^ν^)「………」

 

無言のままデレの顔を見つめる。

幼少の頃からずっと、恋焦がれていた女の子が今目の前にいる。

 

“いつかこの寝顔も、俺以外の男が見ることになるのだろうか”

 

自分でも思わず引くレベルの女々しい考えが頭に浮かんだ。

 

こうやって一人うじうじとして、何も伝えないまま、伝えようともしないまま大人になってしまっていた自分にほとほと呆れる。

肝心な言葉を口にする気もない癖に、無理な理由をこじつけて彼女の隣だけはキープしようとみっともなくあがく男に、一体誰が振り向いてくれるというのか。

 

 

78:名無しさん:2023/10/05(木) 00:20:51 ID:Q0Xg299o0

月を見る。

満月ではない、ほんの少しだけ欠けた、いわば不完全な月だ。

創作やドラマでは求められないような、そんな月。

なのにどうしてだろう。不完全なはずの欠けた月が、今の俺にはこれ以上ないほどに美しく感じられた。

 

( ^ν^)(…この月も、お前はきっと忘れてしまうんだろうな)

 

ずっと昔、初めてデレが作った洋菓子のことを思い出す。

彼女が祖父から教わったという、歪な形をしたショソン・オ・ポム。

 

デレにとっては、何気ない過去のエピソードに違いない。

だけど俺にとっては、何よりも大事な思い出だった。

もし俺の人生が映画だったとしたら、間違いなくハイライトになるであろうと思えるほどに、それくらい、今でも鮮明に思い出せるような、鮮やかに色づいたままの記憶だった。

 

 

79:名無しさん:2023/10/05(木) 00:21:29 ID:Q0Xg299o0

デレが隣にいたというだけで、どんな思い出も宝物になる。

 

中学から借りたオーブンを破壊して、二人で先生にしこたま怒られたこと。

高校生の頃、デレに無理やり乗せられたジェットコースターで気絶して笑われたこと。

大学生の頃、司法試験の勉強中に呼び出され、いきなり冬の海につれていかれた挙句にずぶ濡れにされたこと。

 

今日の夜もきっとそうなる。

ショソン・オ・ポムの甘さも、日本酒の苦みも、淡く光る月光も、安らかに眠る想い人の横顔も。

 

報われなくてもいい。

ただ長く、お前の隣にいられればそれでいい。

お前が作る菓子さえ食べられるのなら、それでいい。

自分を誤魔化すように、昔からずっと抱いている思いを心中で繰り返す。

 

ベランダに差し込む月光が、デレの横顔を優しく照らす。

彼女の白い肌によって光が反射するその様を見ていると、“月下美人”という言葉が浮かんだ。

 

 

80:名無しさん:2023/10/05(木) 00:22:14 ID:Q0Xg299o0

 

昔、“I love you”を“月が綺麗ですね”と訳した文豪がいたらしい。

 

今となっては典拠不明の、一種の都市伝説であるという話だ。

情報飽和社会と揶揄されるこの現代。その程度のこと、今ではそこらの高校生ですら知っている雑学の類。

それなのに、この無駄に気取った言い回しを好んで使いたがる輩が、科学が発達しきった今の世でも未だにわんさかといる。

 

文通だのなんだのと不便だった明治・大正とは違い、今では隣人どころか地球の裏側にいる人間にだって、指先一つで愛を囁ける時代だ。

告白というものがそんな気軽で簡易なものになり下がった今でも、“そんなこと”すら出来ない人間でこの国や世界は満ちている。なんとも嘆かわしいことだと思う。

 

 

81:名無しさん:2023/10/05(木) 00:23:06 ID:Q0Xg299o0

 

グラスを置き、空を見上げる。

宝石箱をひっくり返した海の中を思わせる夜の中心に、丸々と、それでいて煌々と輝いている月が見える。

 

よく見れば、それは満月ではなかった。人々が望むような、創作の中でむやみやたらに持て囃されがちな満月は昨日で終わっている。

それでも少し欠けたその十六夜は、芸術の類に疎い自分でも、目が離せなくなる不思議な魅力を湛えて夜の街を照らしていた。

 

視線をちらりと横に移す。

そこには淡い月光も文豪の形容も笑い飛ばすかのように、すやすやと眠る幼馴染の横顔があった。

 

彼女を見ながら、ふと、とあることに気が付いた。

 

そうか。きっと、“月が綺麗”なんて、気障な言い回しを考えた者は。

きっとそいつは、博識な文豪でも、瀟洒を気取った訳でも、はたまた日本人に古来から伝わる奥ゆかしさなんてものを重視した訳でもなく。

 

今の自分と同じように。

そいつは、単純に、ただ、きっと――。

 

 

82:名無しさん:2023/10/05(木) 00:24:08 ID:Q0Xg299o0

 

( ^ν^)(“好き”の一言すらちゃんと言えない、臆病者だったんだろうな)

 

今の自分のように、と自虐気味の思考を付け足した。

 

デレの寝顔を正面から見つめる。

 

……どうせ、眠っていて聞こえていないのなら。

今日の夜のことも、彼女はいつか忘れてしまうというのなら。

 

数分ほどじっと彼女を見ていた俺は、自分にすら聞こえない声量でぼそりと呟いた。

 

 

83:名無しさん:2023/10/05(木) 00:24:59 ID:Q0Xg299o0

 

 

 

( ^ν^)「――月が、綺麗ですね」

 

 

 

十数年以上、ずっと抱えていた想いを口にした。

 

眠っているとはいえ、初めて想い人の前で披露した秘めた想いの言葉。

口にしたそれは以外にも、さきほどからずっと頬を撫でている秋風のように爽やかな心地で自分を満たしていった。

 

( ^ν^)(……何を言っているんだろうな、俺は)

 

髪をくしゃくしゃと掻き、空になった皿をまとめようとする。

 

 

 

その瞬間だった。

 

 

84:名無しさん:2023/10/05(木) 00:26:31 ID:Q0Xg299o0

 

 

 

 

ζ(― *ζ「――だからさ、ちゃんと言ってよ」

 

 

 

 

聞き慣れた、それでいて今聞こえるはずのない声色が耳を打った。

 

ゆっくりと、それでいて慎重に右を向く。

そこには、今まで一度も見たことのないような表情をした幼馴染の姿があった。

 

 

85:名無しさん:2023/10/05(木) 00:30:59 ID:Q0Xg299o0

 

(; ^ν^)「えっ…?お、おまえ、起きて――」

 

ζ(゚、゚*ζ「…いくら幼馴染でも、一人暮らしの男の家で寝る訳ないでしょ。馬鹿じゃないの?」

 

俺の言葉にデレは口を尖らせる。

彼女は俺の方をじっと見たまま“そんなことより”と二の句を継いだ。

 

ζ(゚、゚*ζ「…知ってるなら、反応すればいいじゃん。知らないフリしちゃってさ、いじわる」

 

( ^ν^)「は…?」

 

ζ(゚、゚;ζ「だ、だから…夏目漱石だって」

 

視線を泳がせながら、彼女はおずおずと月を指差す。

一際冷たい風がベランダに吹く。それでも、俺のオーバーヒート寸前の頭は少しも冷えてくれなかった。

 

 

86:名無しさん:2023/10/05(木) 00:32:29 ID:Q0Xg299o0

 

(; ^ν^)「い、いや…だから、"死んでもいい"、って……」

 

ζ(゚、゚#ζ「だから何よそれ!分かってるなら、ちゃんと返事してくれればよかったじゃん!」

 

顔を真っ赤にしながら、懸命に声を張り上げて主張するデレ。

 

――そうか、彼女は“返答”のことまでは知らなかったのか。

ストンと納得すると同時に、俺はなんだかおかしくて堪らなくなって、声を上げて笑ってしまった。

 

(* ^ν^)「ふ、…ふふ、は!あっはっは!」

 

ζ(゚、゚;ζ「な、何で笑うのよ!こっちは真面目な話を…!」

 

(* ^ν^)「いや……悪い、ほんっとに、馬鹿だなぁと思って」

 

ζ(゚―゚;ζ「ま、また馬鹿にした!?」

 

( ^ν^)「違ぇよ。…今回ばかりは、俺の方だ」

 

笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を指で掬いとる。

 

いや、そもそも今回に限った話ではない。

彼女への想いを自覚した時から、俺はずっと、彼女以上の阿呆だったのだ。

 

 

87:名無しさん:2023/10/05(木) 00:33:32 ID:Q0Xg299o0

 

ζ(゚、゚*ζ「……それで、どう、なの」

 

左手で髪をいじりながら、デレが遠慮がちにこちらを見る。

少しの不安と照れが見えるその表情は、今までの何よりも可愛らしく思えた。

 

ζ(゚、゚*ζ「…今度は、ちゃんと、言ってくれる?」

 

目と目が合う。

痛いくらいに真直ぐなデレの視線が、揺れることなくこちらに向けられる。

 

無言のまま、再び頭を巡らせる。

もう、変な意地を張っていたあの頃の自分ではない。

眼前の彼女が望んでいるのは、どこぞの文豪が言いそうな、遠回しな比喩では決してない。

 

意を決して、いつもより大きく息を吸う。

真摯に浴びせられる視線から少し目を外しながら、俺はテーブルの上の小皿を手に取った。

 

 

 

 

(; ^ν^)「……………その、」

 

 

88:名無しさん:2023/10/05(木) 00:34:22 ID:Q0Xg299o0

 

 

 

 

(; ^ν^)「――おかわり、くれるか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ζ(゚、゚*ζ「………………………へ?」

 

 

89:名無しさん:2023/10/05(木) 00:36:12 ID:Q0Xg299o0

 

素っ頓狂な俺の言葉に、デレもまた素っ頓狂な声を上げる。

再び、静寂がベランダ全体を包み込んだ。

数分か、それとも数秒にも満たない時間だったのか。

時が止まったのかと思うくらいに静かな空間を切り裂いたのは、デレの踊るような笑い声だった。

 

ζ(― *ζ「ふ……ふ、ふふ、ふふっ、ふふ!」

 

ζ( ワ *ζ「ふふふっ……あ、あーはっはっはっは!!」

 

もう堪えきれないといった具合に、腹を抱えて笑い出すデレ。

ベランダに彼女の笑い声が充満する中、俺はやたらと熱くなった頬を抑えながら、じっと情けなく俯いていた。

 

ζ(― *ζ「ふふ、あはは…あーおっかしぃ…」

 

ζ(^―^*ζ「…オッケー、おかわりね。はいはい、分かりましたっ!」

 

空いた大皿を手に取り、デレは楽し気に窓を開ける。

ニコリとした笑みを一切崩すことのないまま、部屋に戻る直前、彼女はクルリとこちらに振り向いた。

 

 

90:名無しさん:2023/10/05(木) 00:37:26 ID:Q0Xg299o0

 

ζ(゚、゚*ζ「……おかわり持ってくるまでに、ちゃんと準備、しててよね」

 

ζ(゚ー゚*ζ「十数年、ず~っと待ったんだもん。これ以上は待ってあげないんだから!」

 

瞬きすら忘れるほどの笑顔を携えたまま、彼女は部屋に戻っていく。

パタパタと駆けていく彼女の足音を聞きながら、俺はぐったりと椅子に背中を預けた。

 

 

91:名無しさん:2023/10/05(木) 00:38:09 ID:Q0Xg299o0

 

( ∩ν^)「…………腹、くくるか」

 

目頭に手を当てながら、頭の中にある語彙を集めては、どう伝えようかと考えては次々と思考が霧散していく。

 

テーブルに残されたままの小皿を見る。

“まだ食べられるだろうか”と自分の腹事情に関する、場違いな考えが頭をよぎった。

 

 

92:名無しさん:2023/10/05(木) 00:41:17 ID:Q0Xg299o0

 

心臓が爆発しそうなくらいに鳴っている。

昔受けた司法試験本番の日でも、こんなに緊張したことはない。

 

不安、恐怖、絶望、失恋、失敗と、嫌な言葉が切れることなく頭を回る。

何を言えばいいのか。シンプルでいいのか。それで本当に呆れられないか。

俺は本当に彼女の隣に立つに足る人間なのか。そんなことばかり考える。

 

それでも、向き合わなくてはならない。きちんと言葉にしなければならない。

ずっとずっと待たせ続けていたのだ。せめて肝心な今日くらい、びしっと決めて始めたい。

 

 

93:名無しさん:2023/10/05(木) 00:43:25 ID:Q0Xg299o0

 

 

空を見上げる。

きっとこの先、百年経っても忘れられなさそうな月光が煌びやかに輝いているのが見える。

 

 

 

今にも破裂しそうな胸を抑えながら、ショソン・オ・ポムのおかわりが来るのを待っていた。

 

 

94:名無しさん:2023/10/05(木) 00:46:45 ID:Q0Xg299o0

 

 

( ^ν^)ショソン・オ・ポムにアンコールを、のようです

 

~おしまい~

 

​◆支援絵

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