ブーン系
食と旅の秋祭り
26
月夜の蟹のようです
1:名無しさん:2023/10/05(木) 00:54:01 ID:Le8acQQY0
( ^ν^) 「……」
帰省先で俺を待っていたのは蟹だった。赤く茹でられた蟹が二匹、白い皿の上で佇んでいる。
しかし誰も蟹に見向きはしない。
( ФωФ) 「蟹の出汁でカレーにしたらいいじゃねえか」
ξ゚⊿゚)ξ 「昨日ようやくカレーの残りを食べきったところなのに、またですか?」
( ФωФ) 「クソガキが食べるだろ」
ξ゚⊿゚)ξ 「蟹ピラフにしましょうか」
( ФωФ) 「あいつ蟹のカレーが好きだろう」
ξ゚⊿゚)ξ 「ピラフにしましょう」
蟹の茹で汁の使い道について揉めている。そして数回のラリーの末に母が勝った。意外だな、と思う。それだけの期間、この二人は共に暮らしてきたのだな、とも思う。
.
2:名無しさん:2023/10/05(木) 00:54:53 ID:Le8acQQY0
今年の夏休みも例年通り、帰省をするつもりはなかった。実家に帰っても息がつまるし、地元に残っている友達もそれほどいない。東京にいたほうが地元の友達と会いやすいとすら思う。東京にて地元メンツとの飲み会が企画されると、新幹線で地元から駆けつける奴もいる。
「東京にアクセスしやすいのが地元の唯一のいいところだから」なんて言いながら現れては散々飲んで誰かのアパートに泊まって数日遊んでから帰っていく。
そのくらいの距離だから、いつだってすぐに帰れるのだからと帰省をせずにいたら、母から助けを求める連絡がきた。
「今年は帰ってきて。おじいちゃんが会いたがってるわよ」
父からも他力本願な連絡がきた。
「母さん同居して苦労してるが、僕は出張で手伝えない。息子として助けたいとは思わないか」
祖父からは特に連絡がなかった。だから俺は帰ることにした。祖父はたぶん俺の扱いを一番よくわかってる。
新幹線で一時間半、それからバスで三十分。文庫本一冊読み終えるくらいの頃には最寄りのバス停に着く。
坂道をせっせとのぼって、実家の門をくぐる。ざく、ざくと砂利の道を歩く。敷地に停められていたはずの軽トラの姿はない。
( ^ν^) 「……ボート?」
ガレージと呼べるほど立派なものではない古びたトタン屋根の下には小振りなボートが置かれている。
その周囲にはゴム長靴やクーラーボックスやリールやら釣糸やらが並んでいる。
引退後の祖父の暮らしぶりがよく分かる。
祖父の家のインターホンを鳴らそうかと挙げた手を、少し躊躇ってから下ろす。
ここはもう祖父の家ではなく、自分の実家なのだ。あまりにもよそよそしいような気がする。でもどうなのだろう。帰省の経験が無さすぎて、帰省の流儀を分からずにいる。インターホンを押すのが主流なのか?
悩むうちに考えているのも馬鹿馬鹿しくなり、俺は引戸を開ける。なるべく大きな音が鳴るように強く引いて、かき消されそうなくらい小声でただいまと呟いて。
引戸の音が響き、余韻が消えてからも、誰も迎えてはくれなかった。
先程までの緊張を返してほしい。腑抜けた気持ちで靴を脱ぎ、台所へと向かう。
台所では祖父と母がどうでもいい言い争いをしていて、迎えてくれたのは二匹の蟹ばかり。
.
3:名無しさん:2023/10/05(木) 00:55:33 ID:Le8acQQY0
蟹カレーでも蟹ピラフでも正直どちらでも良い。どちらも大好物だ。
祖父の家の蟹カレーは祖母が生きていた頃にもよく作ってくれた。毛蟹の茹で汁で煮込んだカレーには香ばしく焼かれた分厚い豚バラと、鶏もも肉が両方入っていて、具材は肉肉しく食べ応えがあるのに深みのある蟹の風味がカレーに負けないくらい主張していて、それはそれは美味しくて、東京には上手いカレー屋がたくさんあるけれどたまに思い出しては無性に食べたくなってしまうような魅惑的な味だった。
蟹ピラフは母の得意料理だった。洋食づくりが得意な母は、米をしっかり炒めるのがコツよというところだけを毎回俺に教えながら作るもんだから、そこだけ覚えてしまった。母曰く炊飯器でつくるものはピラフとは呼べないらしいけれど、それだけ知っていても俺はピラフなんてつくれない。子供の頃給食に出てきたピラフとは違ってねちゃねちゃしていなくて、おかずもなんにもいらない満足度なのにくどくないからいくらでも食べられてしまうんだ。
だから口論の結果がどうなろうと俺は嬉しいんだけど、そんなことはどうでもよかった。
目の前に鎮座している蟹を食べたい。それだけだった。
わずかばかりの荷物をその辺において、シンクでさっさと手を洗って蟹の前に座る。
( ^ν^) 「これ食べていいの」
( ФωФ) 「食えよ。お前が帰ってくるから捕ってきたんだ」
祖父がにっかり笑って頷いた。記憶の中の祖父よりも皺が増えていて、そして日に焼けている。
( ^ν^) 「ジジイ、なんか、焼けた?」
( ФωФ) 「暇だから釣りばかり行っとる」
釣りか、と呟いて、俺はネットでしかしてないなというつぶやきは声に出さずに留めた。
.
5:訂正:2023/10/05(木) 01:00:15 ID:Le8acQQY0
蟹を食べるとき、どこから食べるか。
俺は必ず足から食べるし、だいたいの人がそうするだろうと思っている。
蟹を店で食べるときは綺麗に剥かれているし、まるごとの蟹を人前で食べる機会は今までなかったから実際のところはわからない。
キッチンバサミやカニフォークもこの家のどこかの戸棚にはあるはずだけど、あれを使うのは邪道だと幼少の頃から言われてきたから取り出しはしない。
己の手と歯で全て食べられる。
ショートケーキを食べるとき、苺は最後に取っておく派だから、蟹の脚も下から捥いでいく。
足の付け根から捥いで、関節を外して、殻の薄い部分に歯を立ててヒビを入れる。ヒビさえいれてしまえばゆで玉子の殻むきのようにツルリと綺麗な蟹の身が現れる。
現れる、はずだった。
( ^ν^) 「なんだよ」
思わず溢れ出た言葉に、ちょうど皿洗いを終えて手を拭いていた母が振り向いた。
ξ゚⊿゚)ξ 「どうしたの?」
( ^ν^) 「中身がない」
殻の内側を広げて見せると、母は眉ひとつ動かさずに「ハズレね」と言って台所の外へと消えていった。
諦められずに他の脚も捥ぐ。捥いで、殻の外側に噛みつく。
やはり期待している弾力はなく、あっさりと割れた殻の内側に中身はほとんどない。
( ФωФ) 「月夜の蟹だな」
未練がましく甲羅を剥がして胴体の身のすかすか具合を覗いている俺に向かって、祖父がぽつりと呟いた。
.
6:訂正:2023/10/05(木) 01:00:59 ID:Le8acQQY0
( ^ν^) 「は?」
( ФωФ) 「中身がない蟹のことだ」
祖父の口から出た月夜の蟹、という響きは、食べるところがないだけの蟹を呼ぶにはあまりにもロマンチックすぎた。
( ^ν^) 「適当なこと言ってるだろ」
( ФωФ) 「そう思うなら調べてみろよ」
祖父の眼差しは真剣だったため、根負けしてポケットからスマホを取り出した。
検索用の小窓をタップして、例のロマンチックな言葉を入力すると、即座に結果が表示される。
【月夜の蟹】
中身がない人の例え。カニは月夜にはエサを食べず、身が少ないことから。
( ^ν^) 「へー本当にある」
( ФωФ) 「若いやつはすぐスマホだな」
( ^ν^) 「便利だろ」
( ФωФ) 「調べただけで学んだ気になりやがって」
そんなことはどうでもよかった。
とにかく今は蟹を食べたい。
もう一匹の蟹を手にとって、脚を捥ぐ。
.
7:訂正:2023/10/05(木) 01:04:23 ID:Le8acQQY0
捥いでむき出しになった脚の付け根からは白い身が勢いよく飛び出していて、思わず笑みが溢れる。
これだよこれ。
溢れている身に本能のままにかぶりついた。ほんのわずかな弾力と、鼻に抜ける磯の香りが俺を満たしていく。
殻を破って身を取り出しても皿に取っておくなどしない。剥きたてをそのまま頬張る。久しぶりの蟹を食す喜びにじっくり味わうことも忘れ飲み込んでしまう。喉ごしがいい。
爪先を捥いで中の汁を吸う。エキスを余すことなく吸い尽くす。
( ФωФ) 「お前、ピアノいらないか?」
( ^ν^) 「は? ピアノ?」
エキスを全て吸い尽くした爪をもう一度吸う。わずかばかりの磯の香りが鼻腔へと抜けていく。
( ФωФ) 「ピアノがな、あるんだよ。草咲に」
足を八本味わい尽くしたら次はハサミだ。大振りなハサミの中の身は大味で歯ごたえが強めだ。
脚よりも固いハサミの殻を奥歯で噛み砕く。殻のかけらが歯の間に残った気がするけれどそれもまたご愛嬌。出汁をしゃぶり放題だ。
( ФωФ) 「草咲の親戚を覚えているか」
ハサミの刃の片方をもいだ後の穴から身を引きずり出す。
刃の先端部分の身まで千切れずに取り出せたのが酷く心地よい。紫がかったぷよぷよの刃先の身は大して美味しいわけではないけれど快感が高じて珍味と化す。
口いっぱいに頬張りながら曖昧に頷いて返す。草咲の親戚、いたようないないような。
.
8:名無しさん:2023/10/05(木) 01:05:21 ID:Le8acQQY0
( ФωФ) 「ヒサ、って名前の女だよ」
ヒサ。
聞き覚えのない響きに俺は首を横に振る。
首を振りながらももう一本のハサミを捥いで、胴体から多めに取れた身にすかさずしゃぶりつく。
( ФωФ) 「キューだよ、ほら、ババアが可愛がってたろ」
( ^ν^) 「……ああ、きゅーちゃん」
祖母と仲の良かった親戚の名前だった。祖母はきゅーちゃんきゅーちゃんと呼んで可愛がっていたから、本名は聞いたことがなかった。
幼少の頃、祖父の家に遊びに来ると大抵きゅーちゃんもここにいて、この台所に腰を据えては、祖母が拵えた握り飯を頬張っていた。
こんがり焼かれたソーセージを取り合った記憶がある。肩を並べて蟹を食べたことも、あったような気がする。
母と同じくらいの年の頃のように見えるのに、精神年齢は俺と大して変わらなかった。
( ФωФ) 「あいつが使っていたピアノが捨てられちまうから、お前、いらねえかなと」
( ^ν^) 「何で?」
( ФωФ) 「大卒先生だろ、ピアノくらい嗜め」
( ^ν^) 「まだ卒業もしてねえし先生でもねえし」
そうか、と言って祖父は笑う。笑うと顔の皺が一層深くなり、時の移ろいを感じる。
.
9:名無しさん:2023/10/05(木) 01:07:17 ID:Le8acQQY0
殻を割る前のハサミを皿に置いて、笑っている祖父に問いかけた。
( ^ν^) 「じゃなくて、なんで。なんで捨てられるんだよ」
( ФωФ) 「死んだんだよ」
( ^ν^) 「え」
( ФωФ) 「何驚いてんだよ、人は死ぬぞ」
( ^ν^) 「ルフィかよ」
( ФωФ) 「大卒先生は難しい単語を使うなァ」
( ^ν^) 「煽りかよ死ね」
( ФωФ) 「言われんでもそろそろ死ぬさ」
うんともいやとも言い難い空気に耐えかねて、一度置いた蟹のハサミを手に取る。
祖父は当たり前の顔をして座っている。祖母が生きていたころと変わりなく、どこかニヤついた口元のままで。
( ФωФ) 「明日から遺品整理の業者が入るからよ、全部捨てられちまうんだ」
( ^ν^) 「業者が整理してくれるなら任せとけばいいだろ」
( ФωФ) 「ヒサは独り身で、親も死んでる。だから盛岡の本家があとは引き取るんだがな」
( ^ν^) 「うん」
.
10:名無しさん:2023/10/05(木) 01:08:07 ID:Le8acQQY0
( ФωФ) 「全部処分でいい、って言って、鍵の番を俺に任せて盛岡に帰っちまった」
( ^ν^) 「なら、全部処分するしかないんじゃねーの」
( ФωФ) 「ヒサが可哀想じゃねえか」
( ^ν^) 「かわいそう、か」
( ФωФ) 「とりあえず、行くぞ」
( ^ν^) 「え」
( ^ν^) 「おれ、蟹食べてんだけど」
( ФωФ) 「蟹は逃げねえよ。帰ってきてから食え」
逃げるかもしれないじゃないか。
蟹なんて、目を離せばすぐに誰かに食べられてしまう。
冷蔵庫の扉にマグネットで張り付いているラップを手に取って、蟹の皿をしっかりと覆った。
それだけではまだ足りない気がして、ラップの横にぶら下がっていた油性ペンを手に取り、ラップの上から「おれの」と書いてペンを戻す。
祖母が生きていた頃は、ラップもペンも引き出しの中に仕舞ってあったはずだな、なんてふと思い出す。
この高さにラップが張り付いていたら、きっと祖母は届かなかっただろう。
少しずつ消えていく祖母の痕跡を寂しく思う。
.
11:名無しさん:2023/10/05(木) 01:09:16 ID:Le8acQQY0
( ФωФ) 「ばかだな」
寂しがっていることに対して言われたのかと思ったが、祖父の目は厳重に包まれた蟹に向いていた。
( ФωФ) 「お前の母さんは蟹は食べ飽きたとか言って見向きもせんよ」
( ^ν^) 「え、あのひと、蟹好きなのに」
( ФωФ) 「冷凍庫、食べなかった蟹でいっぱいだ」
( ^ν^) 「なんで」
( ФωФ) 「魚よりも蟹ばっかり釣ってくるからな」
( ^ν^) 「草」
( ФωФ) 「草?」
( ^ν^) 「あー、いや、腐らせるよりいいなって」
( ФωФ) 「お前冷凍の蟹持って帰れよ」
( ^ν^) 「自宅では食べたくない」
( ФωФ) 「冷凍便で送ってやるからよ」
( ^ν^) 「ぜってーやめろよ。冷凍庫小さいから」
( ФωФ) 「ほら、行くぞ。日が暮れちまう」
.
12:名無しさん:2023/10/05(木) 01:11:18 ID:Le8acQQY0
( ^ν^) 「送らないでくれよ、本当に困るから」
俺の断りには返事もせずに、祖父は車のカギを開けると、迷わず運転席に乗り込んだ。
( ^ν^) 「運転、おれ変わろうか」
( ФωФ) 「クソガキ、俺のことジジイ扱いしやがって」
( ^ν^) 「ジジイだろ」
( ФωФ) 「運転できないジジイはただのジジイだ」
( ^ν^) 「ただのジジイだろ」
( ФωФ) 「毎日運転して釣りに行ってんだ。心配すんな」
( ^ν^) 「毎日釣りしてんの?」
( ФωФ) 「天気悪い日はしねえ」
( ^ν^) 「そりゃ母さんも蟹食べなくなるわ」
( ФωФ) 「お前に食ってもらって嬉しいだろうよ」
( ^ν^) 「ジジイは蟹食わんの」
( ФωФ) 「剥くのが面倒だ」
( ^ν^) 「面倒なのが蟹だ、って、昔ジジイが言ってただろ」
( ФωФ) 「そうか?」
( ^ν^) 「生きるのも食べるのも面倒だけどしなくちゃなんねえんだ、って」
( ^ν^) 「特に面倒なのが蟹、って」
( ФωФ) 「ああ、」
祖父の唇が何かを発しようと動いて、言葉を紡ぐ前に閉じた。
まっすぐに前を見て、黙って車を走らせていく。
.
13:名無しさん:2023/10/05(木) 01:13:31 ID:Le8acQQY0
少し経ってから、祖父が言葉を紡ぎ始めた。
( ФωФ) 「ヒサはな、その面倒ができなかった。だから死んじまった」
( ^ν^) 「ん」
( ФωФ) 「自分でご飯を用意して食べるってことが出来なかったんだよな」
( ФωФ) 「おい、クソガキ」
( ФωФ) 「大卒先生だかなんだか知らんがよ、自分の飯用意して食べれるようになれよ」
( ^ν^) 「ん」
( ФωФ) 「ずーっと、死ぬまで食ってかなきゃいけねえんだ。面倒でもな」
出発前に手を洗いそびれて、蟹の匂いが残っている。車内にそぐわない磯の香りがこの行き場のない空気をすこしだけ緩和してくれる。
ヒサという親戚のことも、生活ぶりも、死因も、今の話だけではなにも分からない。でも、頷くしかないような話しぶりだった。
祖母が亡くなってから、きゅーちゃんとの関係はどうなっていたんだろうか。
ご飯を食べることができないって、なにがあったんだろう。
疑問はいくつか浮かんだけれど、祖父の険しい横顔に問いかけることは出来なかった。
俺はただ、手を嗅ぐ。磯の匂いが、そこにはある。
.
14:名無しさん:2023/10/05(木) 01:15:17 ID:Le8acQQY0
草咲は山の中腹にある住宅街だ。緩やかな坂道が続いていて、斜面に家が立っている。
道路沿いにガレージがあって、ガレージの脇に階段があって、その上に家が建っているような住宅が並んでいる。
坂が多くて不便だなと昔は思っていた。その割に人口が多いなと。
今なら分かる。この坂を上れば工業大があるし、山のふもとには教育大がある。ひっきりなしにバスも通っているし、飲食店も多い。
( ^ν^) 「おれさあ」
( ФωФ) 「どうした」
( ^ν^) 「ピアノよりもこの家が欲しい」
( ФωФ) 「この敷地に学生用のアパートでも建てたらすぐ埋まるだろうな」
( ^ν^) 「くれ」
( ФωФ) 「馬鹿言え、この家は盛岡の本家のモノだ」
( ^ν^) 「美味しいとこだけ持っていくなあ」
( ФωФ) 「そんなもんだよクソガキ」
ガレージに車を置いて、石造りの階段を上る。
膝上くらいの低い門扉を開けて、庭に入ると同時に蜘蛛の巣が顔にかかる。
( ^ν^) 「虫やべえな」
( ФωФ) 「暫く手が入ってない庭だからなァ」
( ^ν^) 「やっぱりいらんわこの家」
( ФωФ) 「だれもくれると言ってないだろがクソガキ」
.
15:名無しさん:2023/10/05(木) 01:17:51 ID:Le8acQQY0
祖父がポケットから鍵を取り出し、慣れた手つきで解錠した。がらり、と引き戸を開けてさっさと中に入っていく。
家主が亡くなったあとの家と聞いて、俺はてっきり荒れ果てた家をイメージしていた。土足でしか入れないような家を。
しかし祖父の背中を追って中に入ると、ごく普通の民家の玄関だった。下駄箱の上にはいくつかの生活用品が置かれていて、土間にはいくつか靴が並んでいる。
( ФωФ) 「これ履け」
祖父は迷うことなくどこかからスリッパを取り出して並べた。
他所の家に土足で入る抵抗感を想像していた俺はどこか安心しながらスリッパを履く。
( ^ν^) 「電気、通ってるのか」
( ФωФ) 「いや、とっくに止めてる」
玄関から真正面に見える台所と思しき部屋が、妙に明るかった。
( ^ν^) 「あそこ、電気ついてないか」
( ФωФ) 「ああ、天窓だ」
まるで住み慣れた部屋かのように台所に入った祖父は天井を指さした。
確かにそこには小さな天窓があり、台所を明るく見せている。
生活感溢れる台所にちょっとした違和感があった。冷蔵庫の隣の、おそらくレンジ台のような家具の上には何も置かれていない。
( ^ν^) 「ここって」
( ФωФ) 「さっき、ウチにあったの見ただろ」
( ^ν^) 「えっ」
( ФωФ) 「この前、レンジ壊れたから、ここから持って行ったんだ」
( ^ν^) 「ええ……空き巣じゃん」
( ФωФ) 「馬鹿言え、本家にも許可とった」
( ^ν^) 「レンジくれって?」
( ФωФ) 「なんでもお好きに処分してください、だとよ。興味もなさそうだった」
だから何でも欲しいもん持って帰れよ、と祖父は続ける。
.
16:名無しさん:2023/10/05(木) 01:19:46 ID:Le8acQQY0
許可を取っているといわれても、乗り気にはなれなかった。業者が処分にくる前に金目のものを持って帰るなんて、空き巣をしているような罪悪感に襲われる。
そもそもよく知らない親戚の家のものなんて欲しくもない。生理的に受け付けない。
幽霊なんて信じてはいないが、思い入れのあるものを持ち帰るなんてしたらバチが当たる気がする。
全く乗り気ではない俺のことなどお構いなしに、祖父は戸棚を開け、クリスタルのグラスを取り出し俺に手渡してくる。
( ФωФ) 「いらんか」
( ^ν^) 「しまうとこないし……」
( ФωФ) 「そうか」
祖父はグラスを戸棚に戻し、続いて銀食器を取り出す。同じ問いに、同じように答える。
早く帰りたかった。この家のものなど、何一つとして持ち帰りたくはなかった。
台所の隣に仏間があり、仏壇とベッドと、電子ピアノが置かれていた。
祖父は鈴を鳴らし、手を合わせる。遅れて俺もそれに倣う。
仏壇の隣の壁に、手書きのメッセージが貼られている。「笑顔で頑張れ」と。
( ФωФ) 「ほれ、このピアノだよ」
YAMAHA、P-60。
鈍いシルバーの電子ピアノに触れながら、祖父は俺の顔を見た。
( ^ν^) 「置くとこ、ない」
( ФωФ) 「ウチに置いててもいいぞ」
( ^ν^) 「そもそも、弾けないし」
( ФωФ) 「大学で音楽サークルに入ったって聞いた」
( ^ν^) 「もうやめたし」
( ФωФ) 「なんでだ」
( ^ν^) 「友達と喧嘩したら大事になっちゃって……もう行けなくってェ……」
( ФωФ) 「ピアノなんて、友達いなくてもできるだろ」
( ^ν^) 「ピアノ、そもそも興味なかったし」
( ФωФ) 「でも」
俺が何度断っても祖父は懲りずに勧めてきたが、続く言葉を失ってとうとう黙り込んでしまった。
.
17:名無しさん:2023/10/05(木) 01:21:17 ID:Le8acQQY0
( ^ν^) 「ジジイ、なんで俺に持って帰らそうとするんだよ」
( ФωФ) 「ババアが生きてたらな、ババアに形見分けすればよかったんだが」
ゆっくりと瞬きをして、それから祖父は唇の端をむりやり持ち上げるようにぎこちなく微笑んだ。
( ФωФ) 「血縁にこだわった、俺のエゴだ。悪かったな」
帰るか、と呟いて祖父は踵を返す。
( ^ν^) 「そもそも、これ、音なるのか」
( ФωФ) 「知らん」
( ^ν^) 「触ってもいいか」
( ФωФ) 「ああ、勿論」
背面の電源ボタンを押すと、powerと書かれた赤いランプが灯る。
鍵盤にそっと指を置く。指の重みで鍵盤が沈み、ドの音が慎ましく響いた。
( ^ν^) 「鳴るね」
( ФωФ) 「ヒサはピアノの先生をしてた。アイツにできるのはピアノだけだった」
( ^ν^) 「……ん」
( ФωФ) 「ピアノよりも、飯炊きの仕方を教えてやんなきゃいけなかったのにな。一人娘で、大事に育てられたんだ」
( ФωФ) 「同じ釜の飯を食ったよしみでよ、一曲、弾いてやってくんねえか」
( ^ν^) 「まあ、いいよ。こんなんしか弾けないけど」
.
18:名無しさん:2023/10/05(木) 01:23:24 ID:Le8acQQY0
うっすらと埃の被った黒い鍵盤を辿って、ぎこちない「猫ふんじゃった」を奏でる。
弾き終わると、祖父がすごい目でこちらを見ていた。
( ФωФ) 「お前、まじか」
( ^ν^) 「大学のサークルなんて酒しか飲んでねえもん」
( ФωФ) 「お前にこのピアノは勿体ないな」
( ^ν^) 「ジジイの家、これ置く場所あんのか」
( ФωФ) 「そんくらい置けるさ。馬鹿にするな」
( ^ν^) 「じゃあ、持って帰ろう」
( ФωФ) 「いいのか」
( ^ν^) 「蟹臭い手で、弾いちゃったから」
両手を祖父の顔の前にかざすと、祖父は鼻をひくつかせて、それから顔をしかめた。
( ФωФ) 「遺品になんてことを」
( ^ν^) 「もう俺のもんだから」
東京に帰ったら、もう少し練習してみよう。ピアノも、料理も。
まだ俺は月夜の蟹だ。このままじゃ、ずっと。
ピアノを貰ったから復帰したい、と頭を下げたら、再入部を許して貰えるだろうか。
母に聞いたら、蟹ピラフの作り方、また教えてもらえるだろうか。
でも戻ったらまず、蟹の残りを食べよう。
手からはまだ、蟹の匂いがしている。
【終】
.