ブーン系
食と旅の秋祭り
45
('A`)我らの街、シャンネンバーグ
1:名無しさん:2023/10/09(月) 23:25:13 ID:56HSO5KU0
1 写真館の老人
街の外れにある孤児院の天井は、この地方の建物には珍しく木で出来ている。
朝方に決まってその天井の梁を渡る鼠が、ハインは嫌いだ。
从 ゚∀从
ハインリッヒ、14歳。痩身長躯に、褪せた銀髪。普段はボロをまとう少女が、
今日もめかして街で一番のお金持ちの家に行く。
いったい何をしにいってるんだろうね。街でちょっとした噂になる。
孤児の彼女にとって、好奇と軽蔑の視線は空気のようなもの。
どこにでも付いてくるし、それと意識する前からあった、当たり前の存在。
今では彼女の方が、彼らにとって空気になりつつある。
孤児に関心を向け続けるほど、彼らは情け深くない。
自然と興味は、自分の家に着飾った孤児の少女を通わせている、街一番の金持ちに移る。
2:名無しさん:2023/10/09(月) 23:27:26 ID:56HSO5KU0
孤児院から街の中央へ向かう道は、夜に降った雨でぬかるんでいる。
ハインはいつものボロ靴を履いて、ヒールが付いた、くるぶし丈のショートブーツを手に持って歩く。
一歩ごとにボロ靴が泥土に沈み込んで、地面に吸い付く。
膝下のロングスカートに泥がはねないよう、もう片方の手で裾をまとめる。
色白の両脚がむき出しになる。雨上がりの草と泥の匂いが辺りを漂う。
朝の道は閑散としている。農夫は畑に、漁師は海に出た後だ。
他の住人の大半は、まだ家で身支度をしている。
道の両脇には、孤児院が共同管理する農園が広がっている。
木柵の向こうのカボチャ畑から、院の孤児たちがハインをじっと見つめる。
从 ゚∀从 「へっ……」
夜雨がまだ葉に残るオリーブの木に、白い花がつき始めていた。
控えめな甘い香りが匂い立つ。
3:名無しさん:2023/10/09(月) 23:29:52 ID:56HSO5KU0
道が街の中心部へと続く通りに合流する。風景が変わる。
畑や木々は消え、石材と漆喰で建てられた二、三階建ての四角い家々が隣り合って立ち並ぶ。
地面がモザイク状の石畳になり、ボロ靴が人のまばらな通りに泥の跡を残していく。
ハインは丘の上にある家を目指す。
目的の家は、この街でよく見られる飾り気のない建物とは違って、
白い箱をいくつもつなぎ合わせたような、なめらかな平面を多用した"モダン"な建築だ。
街の人たちは、その外観より内部の様子から、写真館と呼んでいる。
家の主は世界中のカメラを集めている収集家だ。
74歳の老人で、ドクオと呼ばれているが本名なのか誰も知らない。年齢の方も怪しい。
交易で財を成した、この街で一番の資産家。
丘の上の写真館の老人。ドクオ。
ハインは今日も彼の相手をする。
4:名無しさん:2023/10/09(月) 23:32:22 ID:56HSO5KU0
2 シャンネンバーグ
ハインは中心部を通り抜け、街の端へたどり着く。家が尽き、視界が開ける。
丘へ続く勾配の入り口は、踊り場とテラスが合わさったような石造りの広場になっている。
吹き寄せる風にかすかな潮の香りを感じて、ハインは目を細める。
広場の向こう側、崖下には海が広がっていた。
凪いだ海が、くすんだ銀皿のように光を放つ。
この街は、アーキペラゴの海とよばれる広大な内海に面している。
長い年月をかけて、海が山裾や丘にまで迫ってきた沈水海岸の街。
斜面や崖の上に張り付くように立つ海辺の街、シャンネンバーグ。
遠目には、街は一つの巨大な砦のようにも見える。
元々は小さな漁村だった。その頃は、町や城塞を意味する接尾語「バーグ」はついていなかった。
ただの村、シャンネン。
5:名無しさん:2023/10/09(月) 23:35:52 ID:56HSO5KU0
70年ほど前から開拓が盛んになり、景勝地や避寒地として発展してきた。
海岸沿いに、また海から内陸へ向けて、横倒しにしたT字のように縦横へ拡大を続けている。
内陸方向の郊外には畑や孤児院があり、海側の崖を下りた先には小さな魚港がある。
海の向こうの大陸で起きた悲惨な大戦に巻き込まれることもなく、平和な時が続いてきた。
だが、それも終わろうとしている。
2年前、後にグレート・ウォーと呼ばれる大戦争が終わった。
15を超える国が大陸で、海で、別の大陸の植民地で戦った。
この戦いで大陸の、世界の秩序が変わった。
その影響がアーキペラゴの海を越えて、この地へ、老いた帝国に広がっている。
6:名無しさん:2023/10/09(月) 23:39:41 ID:56HSO5KU0
3 この仕事、この場所
(‘_L’) 「主に取り次ぎますので、しばらくここでお待ち下さい」
从 ゚∀从 「ああ…」
泥だらけのボロ靴は、門から玄関までの間に広がる前庭で履き替えて、茂みに隠した。
帰るとき忘れないように、とハインは考える。
大陸の高名な建築家に建てさせたというこの白い家は、孤児の少女には別世界だ。
家の前に畑ではない庭があることが、まず理解できない。
玄関ホールの天井の高さは、孤児院の何倍もある。
この家の中にどれくらいの数の部屋があるのか、想像もつかない。
場違いだ。どれだけ綺麗な服を着て髪を整えても、自分はここの人間にはなれない。
ハインの中でその思いが強くなり、居心地が悪い。
从 ゚∀从 (もう何度も来てるのにな)
この応接室に通されるのが何度目か正確には思い出せない。
それだけの回数、ハインはここに通っている。
7:名無しさん:2023/10/09(月) 23:43:06 ID:56HSO5KU0
しばらくして白髪の老人が部屋に入ってくる。
('A`)
体は痩せて小さく、背はハインと同じくらいだ。
短い挨拶を交わした後で、二人は連れ立って別の部屋へ移動する。
執事が後に続く。
移動した先の部屋は窓がなく、左右の壁が数え切れないほどの写真で埋め尽くされていた。
その全てが白と黒の濃淡で像を写している。多少の黄ばみは別にして。
正面の壁際には、百を越えるカメラが硝子貼りの棚の中で整列している。
老人はカメラの収集家というだけではない。写真家だ。
そうしてハインは老人相手に仕事を始める。
8:名無しさん:2023/10/09(月) 23:47:51 ID:56HSO5KU0
老人は、大ぶりなカメラと三脚を執事と二人で持ち出し、隣接した部屋に移動する。
ハインもその部屋へ入っていく。
今度の部屋も窓がなく、椅子と机以外ほとんど何もない、がらんどうの空間だ。
二人は、三脚にカメラを設置してハインに向ける。彼女との距離を確認する。
執事が閃光粉の量を調節する。老人はレンズカバーを外して、ファインダーを覗く。
照明を切る。部屋に暗闇が降りる。
カメラのシャッターを開く。
執事が閃光粉を発火させる。部屋がまばゆい光で包まれる。
老人がシャッターを閉じる。
露光が終わる。照明がまた灯る。
ハインが、ポーズを変える。
また、逃げ出したくなる。
9:名無しさん:2023/10/09(月) 23:51:01 ID:56HSO5KU0
4 記憶
老人ドクオの記憶は失われつつある。
クローゼットの奥に仕舞い込んだ昔の服が、虫に食われるように。
取り出す機会がないから、老人はそのことに、なかなか気がつかない。
記憶は人知れず消えている。
ハインが老人に会うのはそのためだ。
老人の昔話を聞いて、昔の服を一緒に見分する。
仕事はある意味では単純だ。
老人のカメラのコレクションの説明を聞いたり、昔撮った写真にまつわるエピソードを教えてもらい、
食事をしながら会話したりするだけ。
興が乗れば、今回のように一緒に写真撮影をしたりもする。
乗り気なのは老人だけで、ハインは面倒に思っているとしても。
10:名無しさん:2023/10/09(月) 23:57:50 ID:56HSO5KU0
その単純な内容の割に、事情は込み入っている。
高齢になって、すっかり野外で被写体を追い求めることができなくなった老人は、ここのところ呆けはじめている。
ひとり家に引きこもっている孤独な老人という生き方が、それに拍車をかける。
心配した遠い親戚が会話でもできればと、老人に話し相手を用意しようとしたところ、彼は激怒した。
親戚たちは、老人の趣味の写真と絡めて、相手はカメラや写真に興味があるとか、可哀想な身の上だからとか、
適当を吹き込んで、なんとかこれを納得させた。
彼らの狙いは老人が他人と交流することで、老人の目的は趣味のカメラと写真の魅力を披露すること。
老人は当然のように、ハインに写真の撮り方を教え始めた。
ハインがやる気なく撮ってきたカボチャ畑のブレた写真を、目尻に皺を集めて眺める。
その眼差しは、年頃の孫と戯れる老人のようだ。
老人には子供ができなかった。だから孫もいない。
これはその代償行為かもしれない。
とんだ茶番だ、とハインは思う。
だが、この仕事を依頼してきた親戚に裏があることを、ハインは知っている。
彼らは老人の財産を狙っている。
そして、ハインはその手先だ。
11:名無しさん:2023/10/10(火) 00:06:18 ID:I/48/UdA0
5 時代の雰囲気
('A`) 「天気もいいし、午後は街に写真を撮りに行かないか?」
その申し出にハインは困惑する。
ドクオは孤独で引きこもりがちな老人という話だった。
実際、これまでハインはこの老人が外出しているところを一度も見たことがない。
昼食の給仕を行う執事が一瞬、動きを止めたのをハインは見逃さない。
事前に考えていたプランではない。
飲みかけの紅茶のカップをテーブルの受け皿に置いて、ハインは申し出を承諾する。
初めてのことに、気だるさと僅かな高揚を感じる。
ハインはドクオが用意した街歩きの服に着替える。
そして二人は写真館の前庭を抜け、坂を下っていく。
ハインはすっかりボロ靴のことを忘れている。
12:名無しさん:2023/10/10(火) 00:20:39 ID:I/48/UdA0
崖沿いに、緩やかに左へ曲がっていく坂道。その向こうに広がる海は、太陽の日差しを受けて砕けた鏡面のようにきらめく。
沖には、大きな船が黒い煙を吐いて遠ざかっていくのが見える。
老人はハインにカメラを手渡す。
VPK・オートグラフィック。
ロールフィルムを採用した安価なフォールディングカメラだ。
重さは約300グラムで、折りたんだ状態なら上着の胸ポケットに入るくらいのサイズ。
('A`) 「撮影時は、レンズが付いた前面部分を引き伸ばして使う」
説明を受けたハインが前面を操作すると、金属音とともにアコーディオンのような黒い蛇腹が伸びる。
从 ゚∀从 「ふーん…」
ハインはそれを気ままに向けてのぞきこみ、シャンネンバーグの風景や老人、輝く海を撮る。
老人も別のカメラでハインと街並みを写す。
从 ゚∀从 「撮れなくなった」
('A`) 「1つのフィルムで撮れるのは8枚までだ」
('A`) 「交換しないとな、貸してみろ」
そう言ってカメラを受け取ると、老人は太陽を背にして、前かがみにしゃがんで影をつくった。
その中でカメラを操作する。側面の蓋を開き、糸巻きに紙を巻き付けたような、円柱状のパーツを手早く入れ替える。
13:名無しさん:2023/10/10(火) 00:25:36 ID:I/48/UdA0
('A`) 「これがフィルムだ」
('A`) 「感光させないようにな、あと砂や埃にも気をつける」
从 ゚∀从 「感光?」
('A`) 「日光に弱いってことだ」
老人はカメラから取り出したフィルムを肩からさげた鞄にしまう。
フィルム1つで8枚と聞いて、ハインは今までよりも慎重にカメラを向ける。
街を行く人々、広場からから見下ろす海、港に泊まる豆粒のように小さい漁師の船、走り回る子どもたち。
何を撮ろうか迷う。
少し真面目に被写体を狙うようになったハインの姿を見て、老人は微笑む
遠くの方で誰かが声を張り上げているのが聞こえてくる。
若い男の声だ。
波の音と風で何を話しているのかまでは聞き取れない。
手振り身振りで何かを熱心に語る青年を、ハインはファインダーに収める。
シャッターを切る。
14:名無しさん:2023/10/10(火) 00:36:32 ID:I/48/UdA0
6 秘石
写真館から戻ったハインは、自分の部屋の窓から外を眺める。
すっかり日が傾いて、辺りは暗くなり始めていた。
裏に生えるオリーブの木々も、輪郭が辺りに黒く溶けはじめていて、もうよくわからない。
相部屋の他の孤児たちもそろそろ帰ってくる頃だなと、ハインは思い出す。
自分の寝床、小さな部屋に四つある二段ベッドの下に戻ろうとするが、
体をかがめるとついさっき蹴られたばかりの背中が痛む。
从 ゚∀从「クソッ…」
从 ゚∀从「ちょっと動くだけで響きやがる…」
孤独な老人を心配して、遠い親戚が付けた話し相手。それは表向きの話だ。
本当の目的は、莫大な価値を持つ秘石の在り処を探ること。
15:名無しさん:2023/10/10(火) 00:40:21 ID:I/48/UdA0
その石が歴史に初めて登場するのは13世紀なかほど。
オリーブの実ほどの大きさで、恐ろしいほどの透明度で真紅に輝き、
東方で不治の病に侵された王族を癒やしたとも言われる。
大陸に渡ってからは、王侯の間で時の権勢とともに代々受け継がれてきた。
革命で王家が断絶した折に散逸したとされ、歴史から姿を消す。
それをドクオが所有しているのだと、ドクオの遠い親戚の使いは主張した。
保管場所を探るのが目的だが、それと悟られないように。
万一、家の中で実物を見かけたら、密かに持ち出すように。
使いはハインに念を押した。
孤児の少女に選択の余地はなかった。
16:名無しさん:2023/10/10(火) 00:50:08 ID:I/48/UdA0
孤独な老人であるドクオには、法で定められた相続人がいない。
だから、遺言で相続人を指名しない限り、遠からず老人の財産は全て国家のものになる。
いずれの場合にしても、これは相続前に秘石をかすめ取ろうという企みだ。
下手をすれば、老人がハインに財産のいくらかを相続させる可能性すら、彼らは考えているだろう。
そのために可哀想な身の上の、見栄えのする孤児を彼らは選んだのだから。
ハインが老人の家へ行く着飾った服も、彼らが用意したものだった。
ハインが相続すれば、未成年の孤児の相続財産を管理するのは、後見人である孤児院の大人になる。
そこまで行かなくても孤児院に対する財産の一部寄付ということも考えられる。
彼らは孤児院と遺産を分け合う。
そうした企みの中で、成果が出ない日が続いたハインは、これに加担する孤児院の大人に影で殴られていた。
この調子じゃ先方からの送金が途切れるだろう、と彼らはハインをなじる。
老人に気が付かれないように腹や背中を殴る。蹴る。
17:名無しさん:2023/10/10(火) 00:52:29 ID:I/48/UdA0
孤児たちも最初、綺麗な服を着て畑仕事もしないハインを妬み、疎んで、様々な嫌がらせをしてきた。
大人が見ていないところで、誰かの故意か、彼女の不注意かわからないような嫌がらせを。
着替えの服を隠されることから始まり、寝床に鼠の死骸を入れられたりした。
孤児院に彼女の居場所はなかった。
だが、この仕事のせいで、大人に影で殴られていることが知れ渡ると嫌がらせはやんだ。
ある時、着替えの隙にハインの服を盗もうとした子が痣だらけの躰を見た。
実際に殴られてるところを見かけた子も居るらしい。
同じ孤児だけあって、彼らは大人からの暴力に敏感だ。その痛みを知っている。
孤児たちはハインをじっと見つめる。
そんな彼らに、彼女は時々ほほえみ返す。このくそったれな世の中に対する、精一杯の抵抗。
18:名無しさん:2023/10/10(火) 00:58:48 ID:I/48/UdA0
自分はこの演技を続けられるだろうかと考え、ハインは気が重くなる。
ハインが撮った下手な写真を見て微笑む老人の顔を思い出す。
もし秘石を見つけたとして、自分はそれを盗めるのかと、自問する。
从 ゚∀从 (できるのか、オレに…)
ハインは自分が記憶してる限り、ずっと孤児院にいる。
もしかしたら赤ん坊の頃から居るのかも。
だから孤児のくせに、同じ孤児以外から盗んだことがほとんどない。
せいぜい畑の野菜を盗み食いしたくらいだ。
从 ゚∀从 「……」
盗めるさ、これは自分のためでもある。死にゆく老人には不要なものだ。
ややあってから、そう答えが返ってくる。
19:名無しさん:2023/10/10(火) 01:01:19 ID:I/48/UdA0
7 今の戦争
親戚がハインに秘石を探させる理由は、老人の痴呆の兆しだけではなかった。
彼らは、政情不安による老人の財産の接収を危惧している。
この街は今、ある意味では占領下だった。
だから彼らは焦り、孤児院の大人はハインを殴る。
帝国は2年前の大戦争で敗れた。
戦火がこの地に及ぶことはなかったが、この敗戦で政権は崩壊した。
そして、海の向こうの大陸から、この機会に領土を切り取ろうと軍隊がやってきた。
敗残の帝国に余力はなく、それを受け入れ、この街を含む沿岸部を差し出した。
他でも譲歩を強いられた帝国は、急速にしぼんでいった。
20:名無しさん:2023/10/10(火) 01:05:46 ID:I/48/UdA0
単一民族の帝国など存在しない。
帝国とは他の民族を征服して拡大した国に与えられる称号だ。
そうして腹に収めてきた数多の異民族が、今その老いた体から出て行こうとしている。
自立を目指す民族。
それに乗じて、彼らを保護するという名目で領土の切り取りを画策する国々。
帝国の元将軍や民衆はこれに反発し、激しい抵抗運動が勃発。
新たな戦争が始まった。
大陸から来た軍隊は、占領統治よりこの抵抗勢力の撃破を急いでいた。
抵抗勢力の根拠地がある内陸の奥地へと進軍するために、
シャンネンバーグのような海沿いの比較的小規模な街には、かまっていられなかった。
軍隊は帝国領の奥深くへと去っていった。
だからこの街に駐留してる兵士はいない。
この地方の駐屯地は、90kmほど南に離れたスミルナにある。
シャンネンバーグの何倍も大きく、この地方では最大、
帝国内でも帝都に次ぐ規模を持つと言われる大都市だ。
千年をゆうに超える歴史をもつ港湾都市で、世界中の船が貿易に訪れてきた要衝だ。
21:名無しさん:2023/10/10(火) 01:09:58 ID:I/48/UdA0
8 一日の終りに
いつもより遅い夕食をひとりで終えた老人は、二階のバルコニーから夜の海を眺める。
月光が波間で砕け、暗い海で一筋の帯となって揺れる。
シャンネンバーグの夜景と海が老人の世界を二分する。
老人の心は、ここから見える海のように静かだ。
だがそれも長くは持たない。急速に広がるのは、昼間の街で聞いたベルケスという言葉だ。
確かに覚えがあるような気もするが、それが何だかわからない。
自分の頭の中、記憶の街を走る路地が急にそこで途切れてしまったような気持ち悪さ。
この先に目的地があるはずなのに、どうしても向こう側へ行けない。
思考をめぐらすうちに、見知らぬ部屋で目が覚めたような、軽い前後不覚が彼を襲う。
('A`) 「むう…」
老人は唸り声を上げ、目皺だらけの指で目頭を押さえる。
22:名無しさん:2023/10/10(火) 01:14:46 ID:I/48/UdA0
ドクオが外出をやめたのはこれが原因だった。
まれに自分の時間的、空間的、意味的、居場所を見失う。
今がいつで、ここがどこか、なぜ自分はここにいるのか、不意に分からなくなる。その恐怖。
自宅なら、少なくとも空間的な不明は軽減される。
"ここは俺の家だ"
頑固な老人らしく、このことは過去に居合わせた執事以外、誰にも話していない。
老人は目を開き、懐から最近撮った写真を取り出す。
写真にはハインとシャンネンバーグの街並みが写っている。
老人はしばらく眺めた後で写真を裏返す。そこには日付やメモが何行も書き込まれている。
ある種のキャプションとも言えるが、老人にとっては少し違う。
('A`) 「そうか、そうだったな」
老人はひとり呟く。
写真は、老人のささやかな記憶だ。メモは彼の日常の記録。
やがて老人は、また夜の海とシャンネンバーグを見つめて心を鎮める。
馴染みの景色に落ち着いた老人は、バルコニーをたつ。
その頃には、ベルケスという言葉自体忘れていた。
23:名無しさん:2023/10/10(火) 01:19:39 ID:I/48/UdA0
9 青年
日もとうに落ちて月がのぼった夜、モララーは海を見下ろす広場のベンチにひとり、座る。
彼は昼間、ハインが街の風景と一緒に写真に収めた青年だった。
( ・∀・)
急報を携え、着の身着のままこの地へたどり着いたが、この街に彼をの話を聞く者はいなかった。
誰も彼を知らないし、ベルケスという内陸の小さな村、彼の故郷を知る者も少ない。
モララーは物乞いのようになった自分の服装を眺める。
( ・∀・) 「無理もないか…」
燃える村。略奪と死。
闇の中、黄色い歯をむき出しにして笑う賊。夜の森でツンとはぐれた。
彼女を探すが見つからない。賊に気づかれ追い立てられる。必死に逃げる。
暗い川を下り、荒野に出る。記憶を頼りに、どうにかシャンネンバーグにたどり着いた。
( ・∀・) (この街だって襲われるかもしれない…)
( ・∀・) (あいつらはただの賊じゃない)
だが、物乞いのような風貌のよそ者の話なんて、誰が真に受けるだろう。
24:名無しさん:2023/10/10(火) 01:23:53 ID:I/48/UdA0
疲れ果てたモララーは、月が照らす海を眺めながら、記憶をたどる。
悪い記憶ではなく、何か良い記憶を。
モララーはシャンネンバーグに恋人と一緒に来たことがあった。
まさに今座っているこのベンチで、海を眺めながら二人でただ話をした。
崖に切り拓かれた石の階段を降りて、港で漁師が水揚げする魚を見た。
漁師に船で海に出るとはどういうことなのか聞いた。
内陸の山村で生まれたモララーは、それまでの人生で一度も船に乗ったことがなかった。
漁師たちはボートと呼んでいいような小さな船に、1人か2人で乗って漁をする。
陽の光を浴びて、色とりどりに輝く釣り上げられた魚。モララーが初めて見る魚たち。
「どうした、魚がそんなに珍しいか」
「生まれ育ちが山村なので…」
「海の魚は初めて見ます」
「そうか…」
そう言って漁師は魚について語った。
「こいつはチプラ、タイの仲間で塩焼にしてレモンを垂らして食うと旨い」
「こっちのはラヴラキ、ハタやスズキの仲間だ」
「おっと、ハタやスズキなんて言っても分からねえか…」
25:名無しさん:2023/10/10(火) 01:27:26 ID:I/48/UdA0
モララーは記憶の中で、ツンがどんな表情をしていたのか思い出せない。
( ・∀・) 「魚のことは覚えてるのにな…」
モララーは笑う。その後で、わずかな嗚咽が漏れる。
そのとき、波が岩場にぶつかって砕ける音に混じって、背後から音がする。
幾つもの足音と金属がこすれるような音が近づいてくる。
モララーがベンチから立ち上がって振り返ると、先頭の大柄な男が彼の顔にランタンをかざす。油の匂いが鼻をつく。
五人ほどの男たちが、彼を囲むように立ち並んだ。
ランタンを持った男が口を開く。
(`・ω・´) 「お前が噂の男だな」
(`・ω・´) 「こんな夜更けまで何をしている?」
目尻から頬にかけて刻まれた皺。たくましい体躯。
ランタンの油の他に、わずかに香る磯の匂い。
モララーには彼が漁師なのだと分かる。
( ・∀・) 「えっと、何事ですか…?」
(`・ω・´) 「俺たちはこの街の自警団だ」